【A147】新・書物の解体学

【A147】新・書物の解体学

時間:136分(うち質疑応答16分)
音質:2
ジャンル:文学
講演日時:1992年11月24日
主催:前橋市・煥乎堂
場所:前橋テルサ 8F けやきの間
収載書誌:未発表

音源について
「マリ・クレール」に連載された
書評集成である
『新・書物の解体学』が
同年8月に刊行されたことに際して
行われた講演。
テープ交換以降は
声が曇り聞きとりづらい。

講演より
〈健康な文学〉と〈健康でない文学〉ということで
いまの文学を分けてしまったら、
いったいどういうことになるかというと、
本当の健康な文学というのも、
本当に病的な文学というのも、
両方とも描かれていないというのが
現状ではないかと思います。
やかましい書評をしてみれば、
そういうことになってしまうのではないかと思います。
「本を読むこと」は、必ずしも
すぐれた作品にぶつかることであるとも限らないのです。
しかし、そのなかから何か搾り取ることが、
本の読み方で、さしあたっていちばんいい
読み方なのだとすれば、
見かけ上の健康さと不健康さの後ろに真実らしさとか、
真実の甘美さというものを見つけることが、
読むほうとしても大切なことなのではないかと
思えてなりません。
そこらへんのところまで行けたら、
さしあたって本の読み方としては
いい読み方ということができるのではないかと思います。

【A024】政治と文学について

【A024】政治と文学について

時間:45分
音質:2
ジャンル:文学
講演日時:1971年5月8日
主催:三田文学
場所:慶應義塾大学 三田校舎
収載書誌:弓立社『敗北の構造』(1972年)

音源について
文芸誌「三田文学」の主催。
録音者の話し声や
周辺のノイズが入り、
音質はあまりよくない。

講演より
去年の暮れ、三島由紀夫さんが、政治と文学について、
非常にショッキングなあり方を提供してくれました。
「芸術家が実行家に拮抗しうるとすれば、
死を描写するだけでなくて
自分が死んで見せなくちゃだめじゃないか」
というのが三島由紀夫さんの考え方のように思われます。
三島さんは自らその考えを実行されたわけですから、
そこのところで何もいいたくない気持ちですが、
考え方としては
たいへん古い考え方というほかないと思います。
そして三島さんは、文学芸術の創造ということと、
それが書物として流布される過程とを、
うまく区別できていなかったのではないでしょうか。
創造の行為と、それが書物となって流布されることとは、
違うということを、本当の意味ではあまり
考えられなかったと思われるのです。
そのことは、ただ実感的に知っているだけでなく、
想像力を突き詰めていかなければならないことが
あるように思うんです。

【A155】中上健次私論

【A155】中上健次私論

時間:60分
音質:3
ジャンル:文学
講演日時:1993年6月5日
主催:昭和文学会
場所:国学院大学常磐松2号館2階中講堂
収載書誌:未発表

音源について
昭和文学会の春季大会として
行なわれた講演。
当日は吉本隆明のほか
日高昭二氏らによる講演があった。
客席録音のためノイズが入るが
比較的クリアに収録されている。

講演より
〈都会に出た熊野人〉、
〈熊野という場所で育った熊野の子どもたち〉
というふたつの問題が、
中上さんの文学のふたつの足だと思います。
都会に出てきたアジア的田舎の人といえば、
ごくふつうになってしまいますが、
中上さんの作品のおもしろいところは、
都会に出てきたアジア以前の人、
つまりアフリカ的段階の人ということです。
それが中上さんの文学のひとつの特色です。
もうひとつの特色は、アフリカ的段階の自然、
つまり自然にまみれている自然人の子どもたちの特色を、
中上さんが非常によく描写していることです。
これが中上文学のふたつの足である、と思います。

この講演のテキストを読む

【A064】文学の新しさ

【A064】文学の新しさ

時間:120分(うち質疑応答25分)
音質:5
ジャンル:文学
講演日時:1982年1月21日
主催:京都精華大学 学生部
場所:京都精華大学
収載書誌:未発表

音源について
京都精華大学大教室で行われた。
一般の人にも開放され、
他大学の学生の参加も多かった。
音源は主催者提供。
講演最後が欠けているため、
客席から録音したもので補っており、
この部分は聞き取りづらい。
質疑応答は冒頭と最後が欠けている。

講演より
現在の文学や芸術、芸能では、
実際の現実的な価値、物質的な価値に対して、
イメージの価値が大なり小なり付加されていて、
その全体を指してある価値様式を考えているというのが、
われわれがおかれている環境です。
このイメージの世界が大規模になると考えると、
誰にとっても管理されている時間帯は
増えていくだろうということが、
現在の「新しさ」の根底にある問題だと思います。
その問題をどう考えるかが、
現在の文学の根底にある問題だと思います。

この講演のテキストを読む

【A015】実朝論

【A015】実朝論

時間:299分
音質:5
ジャンル:文学
講演日:1969年6月5日/12日
主催:筑摩書房
場所:新宿・紀伊國屋ホール
収載書誌:中公文庫『語りの海2 古典とはなにか』(1995年)、弓立社『敗北の構造』(1972年)

音源について
2日間に分けて開催されたため、
途中で音質が異なっている。
音源は主催者提供。
吉本隆明はこの講演の2年後に
『源実朝』を刊行している。

講演より
文学にとって重要なことは、
どういう死に方をするかということだと思います。
なぜ文学にとって死に方が重要かといいますと、
死に方は、偶然には依存しないわけです。
ほとんど全面的に、作家あるいは詩人の思想、
資質そのものに依存するからです。
死に方が本質的でないと、
文学としてよみがえることができない、ということが
いえると思います。
実朝という詩人は、中世では誰もが
西行と実朝というふうに数えざるをえない、
最大の詩人のひとりです。
実朝は鎌倉幕府の創始者であった源頼朝の次男で、
12世紀末から13世紀の初めにかけて生きた人ですが、
28歳で暗殺されています。
実朝が、本質的に生きたかどうかは、
そう簡単には決められませんが、
本質的に死にえた詩人だということは確かです。

【A142】現代文学のゆくえ

【A142】現代文学のゆくえ

時間:88分
音質:3
ジャンル:文学
講演日時:1992年10月5日
主催:東急文化村/ドゥマゴ文学賞事務局
場所:渋谷・シアターコクーン
収載書誌:未発表

音源について
吉本隆明が選者をつとめた
「Bunkamuraドゥマゴ文学賞」
の記念講演。
この年受賞作に選んだのは
三田英彬氏による
『芸術とは無慚なもの―
評伝・鶴岡政男』
で、吉本の講演の後には
三田氏による講演があった。
音源は主催者提供。

講演より
現在、高度な先進的社会で流行っている
イメージのつくり方が文学のなかにあります。
「自分の姿が自分で客観的に見えてしまって、
やっている行為自体がぜんぶしらけてしまう」
という描かれ方です。この問題は、引き延ばしてみると
現在の先進的な社会が当面している問題の大きな部分と
共通のところを占めていると思います。
先進的な社会のひとつである日本でアンケートをとると、
89%の人は「自分は中流の生活をしている」という
結果が出てきます。
これはある意味で不気味な数字だし、
たいへんなものだと思います。
世界の先進的な社会で、9割9分の人が
「自分は中流の生活をしている」
という社会がやってくることは、
わりあいに近未来だといったほうがいいような気がします。
それはたいへんな社会です。
どこかでカタストロフィ、破局をつくらないと
文学にはならないでしょう。
「しらけ方」も、破局をもたらすような
描き方を必要とすることになりそうな感じがします。

この講演のテキストを読む

【A069】共同幻想とジェンダー

【A069】共同幻想とジェンダー

時間:163分
音質:★★
ジャンル:思想
講演日時:1983年2月12日
主催:フォーラム・人類の希望/新評論
場所:四谷公会堂
収載書誌:弓立社『超西欧的まで』(1987年)

音源について
「いま、性と労働を問う」
のシンポジウムでの講演。
山本哲士氏の講演を受けはじまる。
講演後には吉本隆明、
山本哲士氏、河野信子氏による
パネルディスカッションを収録。
テープチェンジのため音が欠ける。
音質はあまりよくない。

講演より
19世紀以降、資本主義社会の興隆期に入ってから、
なぜ男女の特性が生産労働過程で無視できると
考えられたのでしょうか。
マルクスの考え方は、労働時間の問題が重要なので、
どういう生産物をつくったか、
どういう質の労働を加えたかという差異は、
あったとしても大したことではないというものです。
イリイチの考え方からいうと、
こんな状態を許しておいたからこそ、
男女の賃金格差は拡がり、
女性は影の仕事に追い込まれるという事態が
生じてしまったことになります。
資本主義の一種の停滞成長期である現在、
どうして改めて生産労働過程における性という問題が
とりあげられなければならないのか──それが
イバン・イリイチという思想家の
根本的な問題意識だと思います。

【A039】枕詞の空間

【A039】枕詞の空間

時間:114分
音質:4
ジャンル:文学
講演日時:1977年7月6日
主催:詩誌「無限」事業部
場所:明治神宮外苑絵画館文化教室
収載書誌:中公文庫『語りの海3 新版・言葉という思想』(1995年)

音源について
詩誌「無限」を発行していた
株式会社無限主催
「無限アカデミー・現代詩講座」
での講演。
ライン録音されたものではないが
クリアに収録されている。

講演より
宮沢賢治に「林と思想」という詩があります。
この詩の根源的情緒は、昔の人のいい方でいえば、
霧をいう場合に「ほのゆける霧」、あるいは
「いさらなみ霧」と表現されたものだと思います。
大昔においては、現在では意味がつかめない言葉を、
枕詞として上につける習慣が詩に限ってあったのです。
この「いさらなみ霧」の情緒と、
宮沢賢治の詩の情緒というのはまったく同じです。
ただ古代人たちが自明の理として考えた
眼に見えないポエジーの空間──ふたつの言葉を
並べることによってそのあいだに
想定したポエジーの空間──だけを再現し、
再現の結果としての「ほのゆける霧」あるいは
「いさらなみ霧」という表現を拒否しているのが
現代の詩だとみなしますと、
現代詩に対するひとつの一貫した考えに
なるのではないかと思います。

【A165】顔の文学

【A165】顔の文学

時間:117分
音質:3
講演日時:1994年11月24日
主催:本郷青色申告会
場所:本郷青色申告会館
収載書誌:未発表

音源について
音源は主催者から提供。
講演冒頭が欠けており、
客席録音だが比較的クリア。

講演より
人間の声というのは、
音で識別する顔の表情だということができます。
本当の顔の表情は目で見て識別するわけですけれど、
人間の声というのもやはりひとつの顔の表情なのです。
その場合の顔というのは比喩ですが、
声というのは音で識別する顔の表情だと
いうこともできるわけです。
顔という言葉をそういう使い方をすると、
もっと極端な使い方ができます。
たとえば「おれの顔を立ててくれ」というでしょう。
文学と関係が深いのは、主として比喩としての顔、
あるいは顔の表情です。
日本の古典文学というのは、
「もののあはれ」を主題にした物語か、
そうでなければ「顔を立てる」物語かの
ふたつに大別することができます。
いかに顔を立てるか、立てないかという問題、
つまり「顔の文学」というものは、
「もののあはれ」の文学と同じように民族の深層、
無意識の奥深くまで届いている問題なのです。

この講演のテキストを読む

【A068】〈若い現代詩〉について

【A068】〈若い現代詩〉について

時間:130分
音質:2
ジャンル:文学
講演日時:1982年12月8日
主催:詩誌「無限」事業部
場所:明治神宮外苑絵画館文化教室
収載書誌:未発表

音源について
詩誌「無限」を発行していた
株式会社無限が主催。
本講演の3か月ほど前に行われた
講演「若い現代詩」を
引き継ぐものとなっている。
録音者の手元でのノイズが入る。

講演より
街頭で瞬間的に飛び交っていく言葉には、
話し言葉という意味あいと、もうひとつ
「発声状態の言葉」という意味あいがあるような
気がします。
取り交わされた瞬間にとらえられた
「発声状態の言葉」という意味あいで、
街頭で飛び交う言葉を瞬間的にとらえることができれば、
それはそうとうラディカルな言葉になるのではないかと
思います。
このラディカルな状態の言葉をとらえるということは、
現在の詩が当面している
とても大きな問題のように思えます。
そのことは、街頭で取り交わされている言葉を、
高度な詩にまで適用できる通路ができてきたということの
証拠なのではないかという気がします。

この講演のテキストを読む

【A173】文学の戦後と現在──三島由紀夫から村上春樹、村上龍まで

【A173】文学の戦後と現在──三島由紀夫から村上春樹、村上龍まで

時間:198分
音質:5
ジャンル:文学
講演日:1995年7月24日
主催:日本近代文学館 後援・読売新聞社
場所:有楽町・よみうりホール
収載書誌:朝日出版社『埴谷雄高・吉本隆明の世界』(1996年)

音源について
恒例で参加していた
「近代文学館・夏の文学教室」
での講演。この年のテーマは
「戦後50年の文学」。客席は満席。
音源は主催者提供。聞き取りやすい。

講演より
文学作品はいつもある時代の作品です。
『源氏物語』は別な面から見ると
ものすごいジャーナリズム小説なんです。
当時の誰それが失恋して失踪したとか、
そういう風俗的な事件がとてもよく入っているんです。
いま読むとその面が沈んで
僕らもよくわからなくなっているけど、
よくよく見れば当時あった人が騒いだ事件は
ことごとく作品のなかにおさめられています。
そのように、ある作品が長生きするかどうかということは
偶然性にもよりますが、いずれにせよ時代の風俗性と、
永続性みたいなものが両方ないと、
長生きはしないということがいえそうな気がします。

【A067】個の想像力と世界への架橋

【A067】個の想像力と世界への架橋

時間:83分
音質:2
ジャンル:文学
講演日時:1982年11月13日
主催:現代短歌シンポジウム実行委員会
場所:千代田区一ツ橋・一橋講堂
収載書誌:雁書館『’82現代短歌シンポジウムin東京・全記録』(1983年)

音源について
「’82現代短歌シンポジウムin東京」
として2日間にわたり開催された
シンポジウム幕開けの講演。
冒頭、佐々木幸綱氏による
開会の挨拶が収録されている。
録音者の手元ノイズが入っている。

講演より
高橋源一郎さんの『さようなら、ギャングたち』という
作品が問題にしていることは、
現在の詩歌が当面している問題そのものであるといえます。
この作品では、ラディカルな詩の概念というものが、
伝統的な言葉の様式からは出てこないで、
何もかもむなしくされてしまい、
現在の原初的な刺激を
無意識の底から受け入れたときに生まれる言葉から
出てくるかもしれないという考え方が
成り立っているのです。
現在、詩的な表出のすべてが
直面している物語性の解体というところで、
短歌の領域でも同じような問題が
本格的に出てきているんじゃないかと
思われてならないのです。

この講演のテキストを読む

【A037】情況の根源から

【A037】情況の根源から

時間:88分
音質:5
ジャンル:情況
講演日時:1976年6月18日
主催:三上治
場所:品川公会堂
収載書誌:三上治「乾坤」創刊号(1976年)

音源について
三上治氏が主催した集会での講演。
クリアに収録されているが
テープ欠落のため途中まで収録。

講演より
私たちが当面している情況を考えてみますと、
ひとりの人間としても、職場の組織のなかにおいても、
政治運動のなかにおいても、
当事者にとっては重要で切実な事柄が、
当事者以外の者にとっては切実でもないし
何でもないと思えるという分裂が
とても極端だということが、あげられると思います。
この問題は夫婦的な規模で申し上げることも、
国家的な規模で申しあげることもできます。
なぜこういう問題に当面しているのかというと、
古典的な政治・国家像、社会像が崩壊しつつあることが
考えられます。経済的・社会的権力が国家的に組織され、
政治的国家権力自体に対しても、大衆に対しても、
大きな力を及ぼすように変貌しつつあるということは
情況的でもあり、かつ本質的な問題ではないかと
僕には思われます。

この講演のテキストを読む

【A029】親鸞について

【A029】親鸞について

時間:97分
音質:2
ジャンル:宗教
講演日時:1972年11月12日
主催:大谷大学 学園祭実行委員会
場所:大谷大学
収載書誌:春秋社『〈信〉の構造 PART1』(2004年)

音源について
冒頭部分が欠けており、
前半はテープノイズがひどく、
たいへん聞き取りづらい。
質疑応答は、途中
二度欠落している個所がある。

講演より
親鸞は、「絶対他力」の思想を根底におく、
日本ではたいへん珍しいタイプの思想家だと思います。
僕は、家が浄土真宗だということを除いては、
宗教もイデオロギーも信じていないし、
「自立」ということばかりいうまことに不肖の者ですが、
若いときから親鸞は好きで、
まったく反対なことをいっているとは
ちっとも感じられないところがあります。
それはおそらく、親鸞の自己解体の過程が、
「絶対他力が同時に絶対自力というものを包括する」
というところを指し示しているからではないかと
考えられるんです。

【A111】荒地派について

【A111】荒地派について

時間:73分
音質:4
ジャンル:文学
講演日時:1988年8月3日
主催:関東学院大学文学部/関東ポエトリ・センター
場所:関東学院大学葉山セミナーハウス
収載書誌:未発表

音源について
主催者から提供を受けた
VHSテープから
音声データを抜き出した。
クリアに収録されているが、
冒頭の司会と前半部に
ノイズと残響音がある。

講演より
三好達治の詩でも立原道造の詩でも、中原中也の詩でも、
半ば無意識的に最初の言葉さえぶつけられれば、
そこから意識の持続がある限り詩は成り立って、
持続が終わったときは詩が終わる。
そういうものが一般的に詩と考えられるとすれば、
荒地派の詩人たちが日本の詩のなかにもたらした
方法というのは、
「推敲可能な詩が書ける」ということです。
流れを止めて考え込む、
立ち止まって自分が書いた詩の一行を
自分でじっと検討してみる──そういう詩の書き方が
可能だということをはじめて教えてくれたのが、
荒地派の詩だと思います。

この講演のテキストを読む

【A017】言葉の根源について

【A017】言葉の根源について

時間:89分
音質:3
ジャンル:思想
講演日時:1970年5月
主催:桐朋学園
場所:桐朋学園
収載書誌:中公文庫『語りの海3』(1995年)

音源について
桐朋学園土曜講座での講演。
客席から録音されたものだが
クリアに収録されている。
途中で声が遠くなるのは
吉本隆明が黒板を使用するため。

講演より
沈黙というと「ぼんやりしている状態」と
思われがちですが、沈黙も言語表現なのです。
ある人が何もしゃべっていなくても、
その人の意識の内部には何かがある、ということです。
黙っていても、その人の
主観的あるいは意識的な状態がわかるとか、
表現されているとか、感じる場合があるでしょう。
それは、沈黙の言語が、内的意識の時間性、空間性に
解体して存在しているからなのです。
外からは憶測するよりしかたがないのですが、
まったく無意味なのではなく、
その人の主観や意識の内部はたいへん満たされていて、
何かしゃべられているのかもしれない、
というようなしゃべり方がありうるわけです。

【A168】「知」の流通──「試行」刊行から34年……現在

【A168】「知」の流通──「試行」刊行から34年……現在

時間:121分(うち質疑応答26分)
音質:3
講演日時:1995年2月10日
主催:地方・小出版流通センター
場所:幕張プリンスホテル
収載書誌:未発表

音源について
地方・小出版流通センター
20周年記念イベントの講演。
やや音声が曇っているが
比較的クリアに収録されている。

講演より
流通のやり方を決めていく決め手というのはもちろん
上のほうから決まっていくのが常道ですが、
消費資本主義、現在の高度な資本主義が突入した段階から
いいますと、逆が成り立つということです。
つまり「価格破壊」が成り立つのであって、
それは別の言葉でいえば、
「消費者第一主義」ということを意味します。
消費資本主義の段階で誰が価格を決めるのかというと、
消費者が決めるわけです。
それにいちばん近いかたち、いちばん便利で安いかたちで
提供を受ける権力というのはどこなんだとか、
やり方はあるのかというのは、
僕が「試行」という雑誌をはじめてから
一生懸命考えてきたことです。
その原則、原理だけはいまでも通用すると思いますし、
いまのほうがある意味ではかえって
通用する段階になっているのかもしれません。

この講演のテキストを読む

【A051】〈アジア的〉ということ

【A051】〈アジア的〉ということ

時間:133分
音質:5
ジャンル:思想
講演日:1979年7月15日
主催:北九州市小倉・金榮堂
場所:北九州市小倉・毎日会館ホール
収載書誌:弓立社『document 吉本隆明 1号』(2002年)

音源について
北九州小倉にある書店、金榮堂の
創立65周年記念として行われた。
暑いなか450名がかけつけた。
音源は主催者提供。かなりクリア。

講演より
アジア的地域では、極端にいいますと、
村落共同体が世界の広さであり、
地球が世界の広さではないのです。
自分の利害の関係のないところで
どんなことが行われようと、
自分のところに響いてこなければ関係ないよという
考え方は、みなさんのなかにもあるでしょう。
アジア人はぜんぶ思い当たるはずです。
それは一見すると、超近代的なかたちで
若い人たちのあいだでも
出てくるかもしれませんけれども、
それには二重性がある、
それは〈アジア的〉心性かもしれないと
疑ったほうがいいと思います。
個々の人間の意識の働かせ方のなかに、
やはり〈アジア的〉な村落共同体的な要素は残っています。
それはどのようにしたらいいほうに働くのか、
どうしたらよくないように働くのか、
どうしたら自然に亡びてしまうものなのか。
それを考えることが僕らに課せられているのです。

【A026】自己とは何か──キルケゴールに関連して

【A026】自己とは何か──キルケゴールに関連して

時間:113分
音質:2
ジャンル:思想
講演日時:1971年5月30日
主催:大学セミナーハウス
場所:新宿・紀伊国屋ホール
収載書誌:弓立社『敗北の構造』(1972年)

音源について
第38回大学共同セミナーで講演。
テープ劣化のためノイズが多く、
音質はよくない。

講演より
結婚して子どもを生み、そして子どもに背かれ、
老いてくたばって死ぬ、そういう生活者を
もしも想定できるならば、
そういう生活のしかたをして生涯を終える者が、
いちばん価値がある存在なんだ──人間存在の
価値観の規準はそこにおくことができると、
僕は考えました。
だから、もっとも価値ある生き方とは何かと問われたとき、
日々繰り返される生活の問題以外には
あまり関心を持たないで、生まれて老いて死ぬという
生き方がもっとも価値ある生き方だ、
というほかはありません。
どんな人間でも、大なり小なりその規準からの逸脱として、
食い違いとして、生きていくわけですが、
キルケゴールなんかには
ぜんぜん関心がないという生き方は、
もっとも価値ある生き方だということができます。

【A110】普遍映像論

【A110】普遍映像論

時間:104分
音質:3
ジャンル:思想
講演日時:1988年6月3日
主催:京都精華大学 学生部
場所:京都精華大学
収載書誌:未発表

音源について
京都精華大学大教室。
一般の人にも開放され、
他大学の学生の参加も多かった。
音源は主催者から提供だが
ライン録音ではない。

講演より
言葉の表現者であり、
同時に死の経験者である──そのふたつのことを
兼ねている文学者がいます。
日本では島尾敏雄という作家です。
もうひとりは、ドストエフスキーです。
この人たちの体験と表現のなかには、
死の体験のイメージと、
死の体験から生きて帰ってきたイメージと、
文学作品としての言葉の芸術が
一身に兼ねられているのです。
そのなかのイメージの構造と作品の構造との関わりあいを
取り出すことができるならば、
いっぺんに解けてしまう問題があるわけです。

この講演のテキストを読む

【A094】時代はどう変わろうとしているのか

【A094】時代はどう変わろうとしているのか

時間:93分
音質:2
ジャンル:思想
講演日時:1986年7月12日
主催:群馬県庁労働組合
場所:群馬会館ホール
収載書誌:未発表

音源について
録音者の手元のノイズが
入っており
音質はあまりよくない。

講演より
時計は「時を計る」という目的のためにありますが、
現在、1000円か1500円出せば
ひと月に何十秒の狂いしかないデジタル時計を
たやすく手に入れることができます。
「時を計る」という機能でいえば、
これ以上のものはいらないわけです。
これは、究極時計というものが
できてしまっているということだと僕は思います。
現在のいくつかの兆候をよく考えてみると、
「これはほとんど究極に近いんじゃないか」
というような商品とか分野とか発達度というものが
ポツポツと存在することがわかります。
これはとても重要なことだと僕には思われます。
もし機会がありましたら、
「このことは究極までいっているのかな」とか
「こうやったら究極になるんじゃないか」ということを、
ぜひ考えてご覧になるとよろしいと思います。

この講演のテキストを読む

【A063】物語の現象論

【A063】物語の現象論

時間:99分
音質:4
ジャンル:文学
講演日時:1981年11月21日
主催:早稲田大学文学部 文芸専攻
場所:早稲田大学文学部 453教室
収載書誌:未発表

音源について
早稲田大学文学部・文芸専攻によって
課外講演会として行われた講演。
たいへんクリアに収録されているが、
質疑応答の途中でテープが切れる。

講演より
現在、イメージの生活世界が膨大になってきています。
私たちは、実質的な生活世界からイメージの世界へ行き、
またそこから降りてきて眠るということを
絶えずやらなくてはいけなくなっています。
どうしてもそこを通過していかなくてはいけない
必然の通路みたいに、イメージの世界は存在しています。
そういう世界を膨らませているのが、
物質的な価値にイメージの価値をつけ加えたい、
イメージの価値で競争したいという衝動であることは
非常に明瞭です。
文学作品が、価値のある世界を実現したいと考えるならば、
「イメージの世界の厚みをくぐり抜けてその果てに出る」
ということがどうしても必須条件になります。
それが、文学にとっての本質的な衝動です。
どうやってそれが実現可能なのかということが、
批評にとっても創造にとっても
最後に出てくる問題だと思います。

【A047】芥川・堀・立原の話

【A047】芥川・堀・立原の話

時間:120分(うち質疑応答29分)
音質:5
ジャンル:文学
講演日時:1978年10月19日
主催:京都精華短期大学 学生部
場所:京都精華短期大学
収載書誌:中公文庫『語りの海3 新版・言葉という思想』(1995年)

音源について
京都精華短期大学大教室。
一般の人にも開放され、
他大学の学生の参加も多かった。
音源は主催者提供。
たいへんクリアに収録されている。

講演より
芥川龍之介、堀辰雄、立原道造は、いずれも
大正から昭和にかけての東京の下町出身の文学者、
詩人です。そして、彼らはいずれも貧困な人たちです。
芥川の父親はミドルクラスの下の出身ですし、
堀辰雄の父親は彫金の職人です。
立原道造は立川屋という商家の出身です。
彼らの文学を、仮に〈弱さ〉ということで
括ってみたいと思います。
〈弱さ〉ということは
身体的な〈弱さ〉と精神的な〈弱さ〉の両方があります。
ふつうの意味の〈弱さ〉とニュアンスが違って、
〈弱さ〉の逆に強さみたいなもの、
しなやかさのようなものも考えられる
〈弱さ〉だと思います。
彼らには、ひとつ共通な〈弱さ〉の美の象徴があります。
それは〈匂い〉ということです。
〈匂い〉の感性が過敏で特異だというのが、
芥川龍之介、堀辰雄、それから立原道造の
作品に共通した要素です。
彼らが本質的に執着している〈匂い〉に対する敏感さに、
それぞれの感性の資質があります。

【A023】詩的喩の起源について

【A023】詩的喩の起源について

時間:45分
音質:3
ジャンル:文学
講演日時:1971年5月2日
主催:日本現代詩人会
場所:新宿・紀伊国屋ホール
収載書誌:中公文庫『語りの海3』(1995年)

音源について
ところどころに録音者の手元で
ノイズが入る個所が
クリアに収録されている。

講演より
日本の詩が発生の起源に近いところで
保存しているものから、
詩的な喩の起源として考えられることは、
一篇の詩形式のすべてを使って
主観的な感情をあらわすというふうには
詩の表現は可能ではなかった、ということです。
日本では、詩の問題は
「詩のなかに意味を込める」ことには
なかったんじゃないか、ということです。
一般的に風景の描写とか
日本的な自然美といわれていることは、
本当はまったくの錯覚であって、
詩の起源に近いところで
「景物」が表現にあらわれている場合、
その「景物」は決して写実的な意味での
「景物」あるいは「自然」ということを意味せず、
むしろ宗教的あるいは自然信仰の段階において
個人の観念でなく
共同体の観念が象徴的に寄り集まるところとして
「自然」というものが詩の表現のなかに存在していた、
ということが考えられるのです。

【A065】若い現代詩──詩の現在と喩法

【A065】若い現代詩──詩の現在と喩法

時間:50分
音質:3
ジャンル:文学
講演日時:1982年9月26日
主催:思潮社
場所:渋谷・西武劇場
収載書誌:思潮社『戦後詩史論』(2005年)

音源について
「思潮社25周年記念・
詩のカーニバル」として
行なわれたシンポジウムでの講演。
この講演のほか、谷川俊太郎氏、
大岡信氏らによる鼎談あり。
比較的クリアに収録されている。

講演より
現在書かれているさまざまな詩を
〈現在〉ということに集約したらどういう問題がでるか。
現代詩という定義とも、現代詩の歴史とも関係がない
「現代詩」がはたしてありうるのかを考えてみますと、
ありうる可能性が
どこかに出てきたんじゃないのかという考え方を
僕は持つようになりました。
そういう道をつけた詩人のひとつに、
「中島みゆきから谷川俊太郎へ」
という鉱脈を考えてみたいんです。
「中島みゆきから谷川俊太郎へ」
という通路を考えることができるということが、
〈若い現代詩〉が直面している大きな特徴のように
思えるんです。

この講演のテキストを読む

【A025】共同体論について

【A025】共同体論について

時間:77分
音質:2
ジャンル:思想
講演日時:1971年5月9日
主催:止揚の会/西荻南教会
場所:文京区民センター
収載書誌:中公文庫『語りの海1 幻想としての国家』(1995年)

音源について
止揚の会と西荻南教会によるイベント
「共同体論ティーチイン」での講演。
周辺のノイズが入っており、
音質はあまりよくない。

講演より
日本の場合、共同体は
ふたつに類型づけすることができます。
ひとつは、首長が政治的な権力と同時に
祭祀権を持っている共同体というのが考えられます。
もうひとつは、共同体の首長が祭祀権だけを
持っているタイプです。
その場合、宗教権力を持つのはたいてい女性で、
その肉親の男性が
政治権力を所有しているというかたちです。
日本の古い時代を想定しますと、
そのふたつの形態が複合して存在しています。
根本的に問題にしなくてはならないのは、
政治権力というものと
宗教的権力というものとの移行のしかたということで、
それがいかに共同体の権力構成に影響を及ぼすか、
また経済・社会構成、自然・経済構成に対し
どういう影響を与えるか、ということです。

【A019】「擬制の終焉」以後十年──政治思想の所在をめぐって

【A019】「擬制の終焉」以後十年──政治思想の所在をめぐって

時間:34分
音質:2
ジャンル:情況
講演日時:1970年7月17日
主催:共産主義者同盟叛旗派編集委員会
場所:中野公会堂
収載書誌:弓立社『敗北の構造』(1972年)

音源について
共産主義者同盟叛旗派の主催による
〈首都労学政治集会〉での講演。
吉本隆明の講演の原題は
「若き戦士たちへ」。
ノイズが多く、音質はよくない。

講演より
社会は、日々働き生産し食べていく
経済社会的な過程さえあれば、
永遠の昔から永遠の未来まで続きます。
しかしそのうえにのっかる法的・政治的国家、
あるいはそこから導入される国家権力というのは、
必ずしもそれと対応せず、因果関係になくとも、
あるいは部族、民族を異にしても、
横合いからいきなりやってきてさらってしまうことは
いくらでもありうるわけです。
「経済社会構成の変化なしに
上部構造の変化はありえない」とか、
「基幹産業における組織労働者の立ち上がりなしには
政治革命がありえない」という考え方は、
迷信だと思います。

【A008】調和への告発

【A008】調和への告発

時間:123分
音質:3
ジャンル:情況
講演日時:1967年11月1日
主催:明治大学
場所:明治大学
収載書誌:徳間書店『情況への発言』(1968年)

音源について
明治大学駿台祭での講演。
原題は「調和への破壊」。
客席から録音されたものだが
比較的クリアに収録されている。
質疑応答は途中で切れている。

講演より
現在、ベトナムには戦争があり、日本には平和がある、
そういう区別の仕方があります。
しかし、ベトナムのなかには戦争もありますけれど、
同時に平和もあるのです。
人間は戦争のさなかでも極めて平和に
恋人とデートすることもできますし、
また一家団欒の食事をすることもできる、
そういうようにしか戦争というものは存在していません。
現実というものはさまざまな次元の場面を許すのです。
逆に、「日本は平和だ」といっても、
ある視点でもって眺めれば、
ちっとも平和ではないわけです。
そこには声をあげずに倒れていく人間もいますし、また、
何の声も発せずに老いさらばえて死んでいく人間もいます。
一見すると無事平穏のごとく見える
日本の国家権力のもとにおける現実のなかに、
さまざまな鋭い裂け目があり、
それをどういうふうにすくい取っていくか、
思想の問題として繰り込んでいくかということのなかに、
情況があると考えております。

【A151】社会現象としての宗教

【A151】社会現象としての宗教

時間:119分
音質:5
ジャンル:宗教
講演日時:1993年3月13日
主催:川崎市立麻生図書館/麻生選挙管理委員会
場所:川崎市立麻生図書館
収載書誌:未発表

音源について
川崎市立麻生図書館と
麻生選挙管理委員会の
合同講座として行われた。
音源はクリアだが
テープチェンジのため欠けがある。

講演より
精神的な存在としての人間は、無限に愚かであると同時に
無限に賢くもなれるというたいへん矛盾の多い存在です。
ひとりの賢い人間がぜんぶ賢いかというと
決してそうではなくて、
ある事柄について賢いということだけであって、
違う事柄については愚かであるかもしれないわけです。
また、ある事柄について愚かである人というのは、
違う事柄においては賢くて、
また能力があるかもしれないというふうに、
人間の存在はできていると思います。
そこのところで、宗教が社会現象として
人々の心に入ってくる根拠があるわけです。
新興宗教の教祖の人たちは、それぞれの自信を持っていて、
自信のもとになる体験も持っている。
賢いところもあり、それが感じられると、
非常にいい宗教だというふうに
なっていくのではないかと思います。

この講演のテキストを読む

【A169】ボードリヤール×吉本隆明 世紀末を語る──あるいは消費社会のゆくえについて

【A169】ボードリヤール×吉本隆明 世紀末を語る──あるいは消費社会のゆくえについて

時間:161分(うち質疑応答11分)
音質:5
ジャンル:思想
講演日時:1995年2月19日
主催:紀伊國屋書店
場所:新宿・紀伊國屋ホール
収載書誌:紀伊國屋書店『ボードリヤール×吉本隆明 世紀末を語る』(1995年)

音源について
第75回紀伊國屋セミナー
「ジャン・ボードリヤール
来日記念講演会」
での講演と対論。
司会及び通訳をつとめているのは
塚原史氏。
音源は主催者提供。クリアに収録。

講演より
ボードリヤールさんは、日本というのを
褒め過ぎではないかと思います。
「日本は起源というのを担保にしていないから、
何でも自在に受け入れていけるし、
自在に展開することもできる、
それは日本の利点じゃないか」
といっておられると思うんです。
僕の考え方は、ボードリヤールさんが見ておられる
日本というのとは逆のことで、
「日本の起源はどう突っついていけば不明でないか」
を課題にしています。
僕らが見ようとしている日本は、アジア的でない、
アフリカ的なんです。
究極的には、ヘーゲル歴史哲学がいう
「アフリカ的段階の日本」というものを
はっきりさせたいのです。
それは、日本の消費資本主義社会を
「死」のほうへ向かって明確にしていくことと、
同じ方向だという方法にあたります。

【A171】『神の仕事場』をめぐって

【A171】『神の仕事場』をめぐって

時間:76分
音質:4
ジャンル:文学
講演日時:1995年6月14日
主催:砂子屋書房/岡井隆『神の仕事場』を読む会
収載書誌:砂子屋書房『『神の仕事場』を読む』(1996年)

音源について
歌集の刊行を主とする出版社が
主催するシンポジウム
「岡井隆『神の仕事場』を読む会」
での講演。シンポジウムは全体で
4時間半に及ぶもので、
出演者は吉本隆明のほか
辻井喬氏や岡井隆氏自身らがいた。
音源はクリア。

講演より
岡井隆さんが、『神の仕事場』のなかでやっておられる
新しい試みがあります。
短歌を「意味」でつくらないで、
「音」でつくってしまう、ということです。
岡井さんには、
「短歌というものを〈音の言葉〉にするということが、
短歌を構成するために非常に重要なんだ」
という考え方があると思います。
短歌の本質は、どうしたら解けるか
本当はよくわからないんですが、
岡井さんは、1歳未満の乳児の「あわわ言葉」を
意味ある言葉だと受け取れるとしたら、
短歌はどうなるか、という試みをしているように
思うんです。
これは、岡井さんの『神の仕事場』のなかで
とても大きな、新しい、現代的な試みだと思います。

この講演のテキストを読む

【A140】芥川における反復概念

【A140】芥川における反復概念

時間:94分
音質:3
ジャンル:文学
講演日時:1992年4月16日
主催:神奈川近代文学館/神奈川文学振興会 後援:日本近代文学館
場所:神奈川県立音楽堂
収載書誌:コスモの本『愛する作家たち』(1994年)

音源について
芥川龍之介の生誕100年を記念して
神奈川近代文学館で開かれた
「芥川龍之介展」での記念講演会。
音源は主催者から提供を受けたもので
クリアに収録されている。

講演より
芥川の作品を読み返して改めて感じたことは、
芥川が漱石の影響を被っている度合いは
とても大きいんだなあということでした。
変ないい方をしますと、芥川という人は
「漱石に魅せられた生涯と文学」だなということを
強く感じました。
乳幼児期の不幸な生い立ちという点で、漱石と芥川は
たいへんよく似ていて、
たいへんよく似た気にしかたをしています。
芥川は閲歴についても、作品についても、
漱石という偉大な師を生涯の反復概念の手本にすることを
いつでも意識していたと思えてしかたないのです。
そう意識しながら、
そこからどうやって出て行こうかということが、
芥川にとってとても重要な問題になったんだと
思われてならないところがあります。

【A081】古い日本語のむずかしさ

【A081】古い日本語のむずかしさ

時間:63分
音質:5
ジャンル:思想
講演日:1984年12月1日
主催:千駄ヶ谷日本語教育研究所
場所:千駄ヶ谷日本語教育研究所
収載書誌:未発表

音源について
千駄ヶ谷日本語教育研究所主催の
第13回公開講座
「みんなの日本語」での講演。
音源は主催者提供。
クリアに録音されている。

講演より
古い日本語についての理解というのは
どこから攻めていっていいかよくわからないんですが、
近世以降の国文学者はどうやってきたかというと、
経験的にたくさんの古典を読みたくさんの方言を聞き、
当てずっぽうでそれらを取りさばいてきたのです。
現在でもほとんど変わらないんですが、
もとをただせばぜんぶ当てずっぽうだというところから
きているともいえます。
そういうふうにしながら、わかったもの、
わからないものというところに到達していて、
まだとうていわからない言葉、
わからない問題がたくさん出てきます。
そのわからなさと日本語の系統のわからなさ、
日本語というのはどこから来たのか、
どういうふうにできたのかが
いまだにわからないということとは
関係があることであって、
それがどういうふうにできて、
どういう言葉なんだというところへ
手探りでもなんでもどんどんさかのぼっていかなくては
いけない、というようなことがあります。

【A066】ポーランド問題とは何か

【A066】ポーランド問題とは何か

時間:140分
音質:3
ジャンル:情況
講演日:1982年11月5日
主催:岩手大学新聞社
場所:岩手大学人文社会科学部4号館41大教室
収載書誌:弓立社『超西欧的まで』(1987年)

音源について
ステージから離れた客席から録音。
「連帯」は社会主義国家ではじめて
自主的に形成された労働組合で、
講演に先立つ10月8日には、
ポーランドの共産党政権によって
非合法化されていた。

講演より
国家が社会に対して100%関与している、
ソ連とかポーランドみたいな社会主義「国」もありますし、
アメリカとかヨーロッパのように、
だいたい40%から50%近くまで
関与するところまでいっている
先進資本主義「国」というのもあります。
日本の場合はどうでしょうか。
正確にはわかりませんが、だいたい30%を
前後するのではないかと思います。
しかし、イメージとしていわせれば、
日本の国家と社会との関係も、
国家の関与率というようなものは、
だいたい40%、つまりアメリカとかヨーロッパとかに
近づいていくだろうと考えられます。

【A062】日本資本主義のすがた

【A062】日本資本主義のすがた

時間:167分
音質:2
ジャンル:情況
講演日時:1981年11月7日
主催:自治労山口県職員労働組合下関支部
場所:下関市水産会館
収載書誌:弓立社『超西欧的まで』(1987年)

音源について
「労働組合論──
日本資本主義の構造」
として行なわれた講演。
音質はあまりよくない。

講演より
私たちは日頃、冷え込んだ不況を感じています。
物価高とか不況とか、給料や収益が思ったほどあがらない。
それはいったいどういうことで
そうなっているのかということは、
ひしひしと感じることのひとつだと思います。
日々あくせくと時間に終われ、
焦燥感とか不安感みたいなものが残っていく感じが
私たちの内部にあります。
この焦燥感・不安感は
いったいどこからくるんだろうかということが、
切実な疑問のように感じられるわけです。
その疑問の根底にあるものは何なのかを
基礎づけることができるかどうか、
そんな実感にできるだけ近づけるかどうかが、
この種の社会や国家の構造論の課題の本命だと思います。

【A046】南方的要素

【A046】南方的要素

時間:113分
音質:3
ジャンル:思想
講演日時:1978年10月7日
主催:部落青年文化会
場所:新宮市・春日隣保館
収載書誌:未発表

音源について
中上健次氏の招きで行われた。
音源はクリアに収録されているが、
講演冒頭部が若干欠けている。

講演より
最初に国家が成立して以降の問題は、
歴史の問題になります。
歴史の問題ということは、記述したりすることが
可能だった時代以降を意味します。
しかし、人間が日本列島に住んでからは
それとは比べものにならない長い時間を経ています。
国家が成立する以前に、さまざまな制度的な移り変わりや
集団の組み替えをしてきたことも確かだと思います。
その骨格が現在でもどれだけ残っているか、
残っていないかという問題は、依然として現在の問題です。
国家発生以前の人間の集団や親族集団の組み方を
考えていく必要は、そういうところにあります。
それは決して過ぎ去った歴史以前の問題でもなければ、
もう考える必要のない問題でもない。
現在も依然として考えなければならない問題です。

この講演のテキストを読む

【A117】岡本かの子

【A117】岡本かの子

時間:91分
音質:5
ジャンル:文学
講演日時:1989年3月10日
主催:川崎市民ミュージアム
場所:川崎市民ミュージアム
収載書誌:中央公論社「マリクレール」1989年8月号

音源について
岡本かの子の生誕百年を記念し
て開かれた講座での講演。
音源は主催者から提供。
ところどころマイクノイズあり。

講演より
岡本かの子の作品には、
「意味」なんかそんなにないんです。
ただ、〈生命〉があるんです。
本来ならば言葉の概念のなかには、
ぐるぐる巻きになったかたちでしか
〈生命の糸〉は含まれていないんですけれど、
高速度写真的な描写によって、その糸を伸ばしてみせる。
その描写から、読む人は〈生命〉を
感ずることができるのです。
〈生命の糸〉というものをスーッと伸ばして、
川の流れに布をさらすように、さらしてみせる。
〈生命の糸〉をこれだけ感じさせた作家はほかにいません。
この作家は、明治以降の近代文学の女流作家のなかで、
女流という言葉を入れなくても
済んでしまう最高の作家だと思います。
この人を最高の作家というためには、
〈生命の糸〉を感じられないといけないように思います。

この講演のテキストを読む

【A105】究極の左翼性とは何か──吉本批判への反批判

【A105】究極の左翼性とは何か──吉本批判への反批判

時間:53分
音質:4
ジャンル:情況
講演日時:1987年9月13日
主催:中上健次/三上治/吉本隆明
場所:品川・寺田倉庫 T-33号館 4F
収載書誌:弓立社『いま、吉本隆明25時』(1988年)

音源について
中上健次氏、三上治氏、
吉本隆明の主催により
オールナイトで行われたイベント
「いま、吉本隆明25時」の講演。
開演から23時間後、
13時10分頃から終演まで収録。
音源はライン録音されたもの。
ところどころマイクノイズあり。

講演より
はっきりさせておきたいのは、
国家と資本が対立した場面では、
資本につくっていうのがいいんです。
国鉄が民営化分割されるっていうんだったら、
原則としてはそのほうが正しいんです。
次に、資本と組織労働者とが対立するときには、
労働者につかなければいけないわけです。
その先に、もうひとつあります。
組織労働者と一般大衆のあいだに
利害の激しい対立が生じた場面では、
一般大衆につくのが、左翼思想の究極の姿なんです。

【A056】文学の原型について

【A056】文学の原型について

時間:131分
音質:5
ジャンル:文学
講演日時:1980年8月15日
主催:高知県教育委員会/高知新聞社/高知放送 後援・NHK高知放送局/高知県教職員組合/高知県文教協会
場所:高知市立中央公民館
収載書誌:未発表

音源について
高知県教育委員会などの主催による
「夏季大学」での講演。
終戦記念日である8月15日の夜に行われた。
音源はたいへんクリア。

講演より
文学の原型、あるいは物語のはじめは、
人間の生死と関わりがあります。
人間の生と死についての考え方が
どうなっているかということと、
物語あるいは文学の原型がどうなっているかということとは
パラレルな関係にあるということです。
人間が生きて、死んでいく、そして
死んだあとにどうなるんだという考え方のなかに、
物語あるいは文学を成立せしめている基本的な構造が
あると思います。
現代の文学でそういうことを
典型的に見ることのできる作家は、たとえば堀辰雄です。
堀辰雄の死についての考え方は、ハイデッガー的でもなく、
サルトル的でもなく、単独に、
文学作品の構造と死に対する考え方の構造を
追い詰めています。

この講演のテキストを読む

【A044】共同幻想論のゆくえ

【A044】共同幻想論のゆくえ

時間:110分
音質:2
ジャンル:思想
講演日:1978年5月28日
主催:同志社大学文学哲学研究会「翌檜」
場所:京都教育文化センター
収載書誌:中公文庫『語りの海3 新版・言葉という思想』(1995年)

音源について
全編にわたってノイズが入っており、
中盤から「ボツ、ボツ」と
テープノイズが続く。
黒板使用のため音声が遠のく。

講演より
『言語にとって美とはなにか』と『心的現象論序説』、
それから『共同幻想論』というのは
僕のなかでは別のものではないみたいな
場所があるわけです。
その3つを統一的なところからうまく関連づけられて、
しかも現在の問題点というのが明示できるかというのが
テーマなわけです。
うまく関連づけられるかどうかは
やってみないとわからないんですけれど、
ここからいけば3つの関連性を
ひとつの鎖でつないでいけるんじゃないか、
そうしながらそれが同時に現在の問題点を
はっきりさせることができるんじゃないかと思うんです。

【A036】『死霊』について──京都大学にて

【A036】『死霊』について──京都大学にて

時間:53分
音質:2
ジャンル:文学
講演日時:1976年5月15日
主催:京都無尽 共催:京都大学新聞社・清華短大基礎ゼミ連合・西部講堂連絡協議会・花園大学新聞部・立命館大学一部学芸総部
場所:京都大学 時計台ホール
収載書誌:未発表

音源について
周辺のノイズが入っており、
音質はあまりよくない。
質問はひとつひとつが切れており、
最後に吉本が答えるが、
この部分も途中で切れている。
埴谷雄高氏の『死霊』は、
本講演の前年である1975年、
26年ぶりに「第五章」が発表されていた。

講演より
埴谷雄高さんの『死霊』の世界は、
登場してくる人物が少しも肉体というものを感じさせず、
いずれも観念の権化であるということを
徹底的に体現しています。
なぜこういう作品が成立したかというと、
埴谷さんは、かつて日本の革命運動に
徹頭徹尾政治的に関わり、戦争をくぐって、
徹頭徹尾文学的に再出発するというかたちで
戦後を生きてこられた人です。
革命と戦争をくぐったときに、
肉体は権力のために制圧されるかもしれないけれども
観念だけは自由だ、
観念だけは誰にも奪われることがなかった──そういう
体験が『死霊』という作品の登場人物の
特徴として出てきているのだと思います。

この講演のテキストを読む

【A009】戦後詩とは何か

【A009】戦後詩とは何か

時間:57分
音質:2
ジャンル:文学
講演日時:1967年11月5日
主催:早稲田大学 早稲田祭実行委員会
場所:早稲田大学 大隈講堂
収載書誌:徳間書店『情況への発言』(1968年)

音源について
客席から録音されているため
周辺のノイズが入っており、
音質はあまりよくない。

講演より
戦後詩というものは、
ひとたび再建された戦後資本主義社会という軌道に
戦後詩人が乗ったとき、自ら終結してしまったと
僕は考えています。そしてそれ以降、
「いかにしてどこに詩を創造する凝縮力の核を求めるか」
という問題についてのモチーフを喪失したのです。
現在、詩人が自らの創造の核というものを
どこに求めるかを考えると、
〈原型として考えられる大衆〉、あるいは
〈沈黙の意味として存在している大衆〉との
対話によってしか、詩の創造の核は
回復することができないと思います。
詩というものが、戦後すぐの無権力状態における混乱と
無秩序のなかから手探りで見つけた創造の核を、
きわめて秩序を回復しているかに見える
現在の資本制社会のもとで獲得していく唯一の根拠と、
現在における詩人の存在理由は
そういうところにあるだろうと考えます。

【A048】現代詩の思想

【A048】現代詩の思想

時間:126分
音質:2
ジャンル:文学
講演日時:1979年3月7日
主催:詩誌「無限」事業部
場所:明治神宮外苑絵画館文化教室
収載書誌:未発表

音源について
詩誌「無限」を発行していた
株式会社無限主催
「無限アカデミー・現代詩講座」
での講演。
冒頭部分が若干欠けているほか、
反響音やノイズが入っている。

講演より
詩を書くこと自体に倫理的な意味をつけるより、
「詩を書くこと自体が詩なんだ」という問題が、
詩というものの思想的な意味なのではないかと思います。
詩の思想の問題は、徹頭徹尾、言葉の問題です。
言葉として「やっているな」というものが打ち出せれば、
それは詩であり、
打ち出すこと自体が思想であるというところに、
現代詩の思想のかなり大きな部分が入っています。
言葉は思想の手段であるか、
思想の倫理であるかということではなくて、
言葉自体が思想です。
そういうところで現代詩が書かれている。
その問題が枢要と思われます。

この講演のテキストを読む

【A174】現在をどう生きるか

【A174】現在をどう生きるか

時間:68分
音質:5
ジャンル:情況
講演日時:1995年9月3日
主催:教育研究会/山梨日々新聞社
場所:山梨県立文学館講堂
後援:新潮社
収載書誌:ボーダーインク『現在をどう生きるか』(1999年)

音源について
山梨県立文学館で行われた
シンポジウムにおける講演。
他の講演者には芹沢俊介氏、
藤井東氏、山崎哲氏がいた。
音源は主催者提供。

講演より
「現在」ということをいうのに、
一般に、「価値の多様化」ということを
人々がいっているわけですけど、
僕はそういうふうに考えていません。
もともと生活における価値観が多様だというのは
当然のことです。
僕は、「価値の浮遊性」というように考えています。
「価値が浮かんで価値の本体から
離れてどこへでも行ってしまう」
ということです。
価値ということはひとつの問題に過ぎません。
「浮遊性」──つまり、ある事柄が
本体のところから離れてどこへでも行ってしまうという
そのことが、「現在」の特徴として
いえるのではないでしょうか。
「浮遊性」を共通の理解事項とすれば、
「現在」ということがいえるのではないかと考えています。

この講演のテキストを読む

【A158】私と生涯学習

【A158】私と生涯学習

時間:105分
音質:2
ジャンル:思想
講演日時:1993年10月3日
主催:文京区教育委員会
場所:文京区女性センター
収載書誌:弓立社『人生とは何か』(2004年)

音源について
客席から録音されたもので
全編にわたってノイズが
入っており音質はよくない。

講演より
古くから叡智という言葉があります。
一生勉強するのは、叡智を持つことが
いちばん大きな目的になるのかもしれません。
それは一生学習するに値するのではないかという
感じを持ちます。
叡智は学識・経験とは違うものです。
ものごとが具体的に起こったときに、
本で判断するとか、学識があるなしでなく、
叡智があるなしでずいぶん違う。
叡智を養うということは、
学校で生まれることではありません。
制度的な学校というものは叡智を養うには
そんなに役に立たないものだと、僕は考えます。
それは生涯の問題だといってもいいのです。
学校を出てから、
本格的になってくる問題だという気がします。

【A181】日本アンソロジーについて

【A181】日本アンソロジーについて

時間:123分(うち質疑応答10分)
音質:5
ジャンル:文学
講演日時:1998年9月25日
主催:文京区立鷗外記念本郷図書館
場所:文京区立鷗外記念本郷図書館
収載書誌:未発表

音源について
主催者から提供を受けたもので
クリアに収録されているが、
質疑応答が10分程度のところで
切れてしまっている。
なお、2007年1月に
『思想のアンソロジー』が
筑摩書房から刊行された。

講演より
僕は、歳を食って、
締め切りに追われる仕事から免除されて、
なおかつ経済的ゆとりがあったら、
のんびりしたかたちでやろうと思ったことがありました。
ひとつは、日本の詩歌の
古代から現代までのアンソロジーを
自分の好き勝手な選び方をしてつくりたい。
もうひとつは、古代から現在までの
思想のアンソロジーをつくって、
のんびりと必要な個所を掲げて、
古い時代ならそれに口語訳の訳文もつける。
あとは自分勝手な注釈をつける。
そういう、ふたつのアンソロジーを
つくってみようという望みを持っていました。
理屈っぽい思想のアンソロジーと詩のアンソロジーと、
両方を自分勝手にやりたいというのが願望です。
願望はうかうかしているとだめだぜ、という感じですから、
暇を見てはちょこちょこやりかけています。
終わるにはなかなか時間がかかりますが、
やりかけています。

この講演のテキストを読む

【A163】芥川龍之介

【A163】芥川龍之介

時間:163分
音質:5
ジャンル:文学
講演日:1994年7月28日
主催:日本近代文学館 後援・読売新聞社
場所:有楽町・よみうりホール
収載書誌:コスモの本『愛する作家たち』(1994年)

音源について
「近代文学館・夏の文学教室」
での講演。
吉本隆明の参加はこれで5年連続。
音源は主催者提供で、クリア。
中盤から録音レベルが若干下がり、
講演の終盤、テープチェンジのため
10分ほど欠けている。

講演より
僕らは若いとき、芥川の死に
いろんな意味をつけたいと思いました。
「自分は近所の駄菓子屋で駄菓子を買って
それを食べながら道で歩くみたいな
下町の下層の中流というようなところで育った。
そして自分は文学的な試みとして、
西欧的なものを取り入れようとしたり、
場所をいろいろ移動してみたりしたけれど、
ついに自伝的に自分の情緒が帰するところは、
本所あたりの駄菓子屋で、駄菓子を買って食べながら
遊んでいた子ども時代、そういう街の雰囲気の懐かしさが
本来的な自分なんだ」
ということを、晩年の自伝のなかではじめて
芥川はいっています。
僕はそれがいちばん好きな感じ方だったので、
芥川はなぜ死んだかという理由づけにしました。
文学的に無理をし過ぎてその無理がたたって、
死ぬ以外になかった、大川端情緒にひたるぐらい
もっと自然になれればよかったのにな、
というのが芥川論を最初に書いたときの
僕の考え方の基底でした。

【A103】文学論──文学はいま

【A103】文学論──文学はいま

時間:59分
音質:4
ジャンル:文学
講演日時:1987年9月12日
主催:中上健次/三上治/吉本隆明
場所:品川・寺田倉庫 T-33号館 4F
収載書誌:弓立社『いま、吉本隆明25時』1988年

音源について
中上健次氏、三上治氏と
吉本隆明の主催により
オールナイトで行われた
「いま、吉本隆明25時」の講演。
開演から7時間ほど後、
21時35分頃から行なわれた。
吉本隆明は「都市論 I 」に続き
2度目の講演。ライン録音。
ところどころマイクノイズあり。

講演より
もし現在の文学が、さびれている感じがしたり、
隣接するほかの世界に
活性が吸収されていってしまうと感じることが
あるとすれば、それは「毒性のなさ」が
大きな要素になるのではないかと思います。
「毒性」ということにはふたつの意味があります。
ひとつは、とても醒めていることです。
もうひとつは、否定性だと思います。
そうした意味でいえば、
村上龍さんの作品も山田詠美さんの作品も、
刺激的な毒性を持っているのです。

【A135】現代を読む

【A135】現代を読む

時間:147分
音質:3
ジャンル:情況
講演日時:1991年10月20日
主催:前橋市・煥乎堂
場所:煥乎堂音楽センター3階ホール
収載書誌:弓立社『大情況論』(1992年)

音源について
群馬県前橋市の書店
煥乎堂により、
「煥乎堂文芸講座」として
開かれた講演会。
客席録音だが、比較的クリア。

講演より
「現代を読む」という場合の、
「現代」と「現在」とを区別してみることは、
僕の考え方ではたいへん重要だと思います。
僕の理解のしかたでは、日本の社会が
「現在」に入った兆候を見せたのは、
1973(昭和48)年頃です。
わかりやすい象徴をいいますと、
そのとき札幌ビールが「天然水No.1」を発売しました。
いわゆる名水、水をはじめて売り出したのが
この73年です。
マルクスのように興隆期の資本主義を
分析した人がいうところでは、
水とか空気はたいへんな使用価値があるが、
交換価値はないということになります。
ところが天然水を売るというのは、
水に交換価値が出てきたことを意味します。
それは、経済の段階で資本主義が
一段階上にいったということです。
初期の興隆してゆく資本主義分析の
基礎になっている考え方が、
やや通用しがたくなった兆候が、
日本社会では1973年前後にさまざまなところであらわれ、
そのとき以降日本社会は
「現在」に入っていったと考えられます。
それは、社会が未知の段階に入っていったということです。

【A156】新新宗教は明日を生き延びられるか

【A156】新新宗教は明日を生き延びられるか

時間:114分
音質:2
ジャンル:宗教
講演日時:1993年6月17日
主催:京都精華大学 学生部
場所:京都精華大学
収載書誌:春秋社『親鸞復興』(1995年)

音源について
場所は京都精華大学大教室。
一般の人にも開放され、
他学生の参加も多かった。
音源はVHSテープから
音声データを抜き出したもの。
ノイズが全編にわたり入る。

講演より
「霊感商法はインチキだ」と
ジャーナリズムは批判しますが、それは違います。
宗教とか理念というものは、
いつも霊感商法に類することを行っています。
マルクス主義もむろんのこと、
自由主義的な思想や政党政派も、
「自分たちがいると企業はよくなるぞ」
みたいなことをいって、企業からお金を吸い上げています。
その意味ではみなが「霊感商法」をやっているわけです。
だから「霊感商法だからインチキだ」というようないい方で
僕は納得しません。
やはり教義の中心を追求して、そこで得るところ、
これは得難いところとか、
これはちょっと違うぞということを、
よくよく検討しなければいけないと思います。

【A113】親鸞の還相について

【A113】親鸞の還相について

時間:122分
音質:3
ジャンル:宗教
講演日:1988年11月1日
主催:真宗大谷派東京教区教化委員会
場所:真宗大谷派東京教区会館
収載書誌:春秋社『未来の親鸞』(1990年)

音源について
東京本願寺
「課題別育成研究会」での講演。
反響音があるが、
内容はクリアに収録。

講演より
僕は死んだ後に実体として浄土があって、
そこに自分たちが行くんだというふうに
少しも信ずることができません。
不信な一般大衆といいましょうか、
煩悩のさかんな凡夫という場所にいる現在の人間は誰も、
たぶん至心に信仰して念仏を唱えれば
浄土へ行けるとは信じていないだろうと思います。
それは、大乗教の世界的思想家である天親とか曇鸞とか
親鸞が一生懸命、末法の時代でも
信仰のうえでわかりやすく説いてくれた教え方を、
僕らはまるごとつかむということが
できなくなっているということがいえるわけです。
そうしますと、いまどういうことが
起こっているかといいますと、
比喩としてしかわからなくなっているのが
実情じゃないかと思えます。
〈還相〉、還りの姿とは何なのか、
浄土とは、人間の「死」とは何なのか、
ぜんぶ比喩としてしかわからなくなっているんです。

【A092】イメージ論

【A092】イメージ論

時間:118分
音質:5
ジャンル:思想
講演日:1986年5月29日
主催:京都精華大学学生部
場所:京都精華大学大教室
収載書誌:未発表

音源について
京都精華大学大教室で開催。
外部にも開放され、聴衆には
他大学の学生のほうが多かった。
音源は主催者提供。
最後の部分が欠けており、
客席からの録音で補った部分のみ
かなり聞きづらい。

講演より
僕は、文学の理論的な考察として
『言語にとって美とはなにか』という仕事を
したことがあります。
言葉というものが基本にあって、
あらゆる芸術の分野の表現が
行われているという考え方をとると、
言葉は人間に付随したものだから
理論的な考察ができると考えてきました。
いま、少しその考え方を変えて、
音楽や映画、デザインから映像に至る
さまざまな分野の芸術表現のひとつとして、
文学を言葉の芸術ではなく
イメージの芸術として扱ったら
どうなるだろうかということを、やってみたいと思います。

【A090】「受け身」の精神病理について

【A090】「受け身」の精神病理について

時間:136分
音質:3
ジャンル:思想
講演日:1986年4月12日
主催:宮崎市・一ツ瀬病院・精神医療を考える会
場所:宮崎市中央公民館
収載書誌:弓立社『心とは何か』(2001年)

音源について
音源は主催者提供。
音声の反響もあるが、
比較的クリア。
テープの反転にともない
聞き取りづらくなる個所がある。
質疑応答はていねいに答えている。

講演より
精神医学についてはまったく門外漢です。
ただ素人というだけで済ましておられないのは、
ここ20年ぐらいのあいだ、
やはり「この人は少し違うんじゃないか」という人から
電話がかかってきたりということは
絶えず3人とか4人とかおられました──
電話を介したりして受けた印象を、
ひとつの言葉で要約してしまいますと、
どうしても「受け身」じゃないのかということでした。
「受け身」ということを、もう少しつけ加えると、
善意であり過ぎるとか、優し過ぎるとか、
度外れに依頼心が強いんじゃないかとか、いずれにせよ
「受け身」ということのなかに
さまざまな属性としてあるもののように思えました。
僕が20年ぐらいつきあってる人で、
攻撃的な人はひとりだけで、
「おまえぶっ殺すぞ」などと、
しょっちゅういう人がいるんですが、
そういっても本当はどうもそうじゃないんじゃないか、
やっぱり「受け身」なんじゃないか、
いい人過ぎるんじゃないかという感じを受けるのです。

【A053】過去の詩・現在の詩

【A053】過去の詩・現在の詩

時間:168分
音質:2
ジャンル:文学
講演日時:1980年2月6日
主催:詩誌「無限」事業部
場所:明治神宮外苑絵画館文化教室
収載書誌:未発表

音源について
詩誌「無限」を発行していた
株式会社無限が主催.
声が若干遠く聞こえ、
ところどころにノイズが入っており
音質はあまりよくない。
質疑応答が講演本編より長い。

講演より
現在の詩のあり方ということと同じ意味あいで、
過去の詩のあり方を問い直そうとするならば、
その再現はたいへん複雑な陰影の立て方を
しないとできません。
ある詩が日付として新しいか、
同時代であるかということは、
詩の新しさ、古さと少しも
関係のないことだといえると思います。
同じ時代に書かれていたとしても、
片方がまるで古代的な形式の様相を
たくさん保存して書かれていながら、
もう一方でまったく
フォルム自体がわからない詩が書かれているということも
ありえるわけです。
これらを等しく、過去の同時代の詩と
理解しなければいけないということの複雑さ──
詩の言葉の空間の複雑さ──がありえるとともに、
日付としては現在の詩が、現在の詩として考えたら
考え違いをしてしまうということが
ありえるのだということも、
かなり複雑な陰影を過去の詩と現在の詩のなかに
提起すると思います。

この講演のテキストを読む

【A106】農村の終焉

【A106】農村の終焉

時間:211分
音質:3
ジャンル:情況
講演日:1987年11月8日
主催:雑誌「修羅」同人
場所:長岡市北越銀行ホール
収載書誌:弓立社『吉本隆明全講演ライブ集 第5巻』(2002年)

音源について
音源は主催者提供だが、
客席から録音されたもの。
世の中ではこの講演の前年
1986年から開かれた
ウルグアイラウンドの
農業貿易自由化をめぐる
議論があった。

講演より
農村を守るという論議のなかには、
非常に切実な問題が含まれているのです。
一種の文明の必然、文化の必然、科学の必然というもの、
そういう必然はいかようにも止めようがないんだけど、
それにも関わらず、
理不尽な絶滅のしかたはしたくないとか、
理不尽な交代のしかたはしたくない、
そこにどういう活路を求めたらいいのかという問題は、
ものすごく切実な問題だし、
当事者だったらなおさらそうなのです。
だからその問題は、もう完全に問題としてあるので、
それは大いに論議されるべきだけど、
「都市の野郎があんなこというのは
むちゃくちゃじゃないか」
「とんでもねえ野郎だ」とか
「農村を知らないんだ」とか、
そういういい方での対立のしかた、
論議のしかたはあまり意味はないと思います。

【A031】〈戦後〉経済の思想的批判

【A031】〈戦後〉経済の思想的批判

時間:76分
音質:2
ジャンル:思想
講演日時:1974年6月18日
主催:共産主義者同盟
場所:日比谷公会堂ホール
収載書誌:蒼氓社「自立と日常」(1974年)

音源について
客席から録音されたもので
会場内の騒音などが入っており、
音質はよくない。

講演より
戦後の日本の政治支配者は、
近代化して落ちこぼれてきた農業を、
高度成長政策による重工業の方に転化していくことで
問題が解決されるかのごとく
経済問題を考えてきたと思います。
しかし、農業が全面的に依存している土地というものの
〈自然性〉と〈人為性〉の矛盾という問題が
よく解かれない限りは、農業問題は決して
解決されないということが本当はいえるのです。
そして、第一次高度成長を経た60年安保闘争後、
政治国家は変わっても
〈経済共同体としての国家〉は
資本主義であろうと社会主義であろうと不変である
という〈経済共同体〉的な考え方が出てきました。
この両極端──さまよえる農業問題と
経済共同体的な経済現象──に、
現在の経済思想的問題は集約されると
考えることができます。

この講演のテキストを読む

【A014】思想としての身体

【A014】思想としての身体

時間:51分
音質:3
ジャンル:思想
講演日時:1968年10月29日
主催:日本医科大学 第12回千駄木祭常任委員会
場所:日本医科大学 4階大ホール
収載書誌:弓立社『敗北の構造』(1972年)

音源について
日本医科大学
第12回千駄木祭での講演。
周辺のノイズが入っているが
比較的クリアに収録されている。

講演より
〈わたしの身体〉というものは、皆さんの側から
客観的に見て観察することができます。
そして、自分が自分の身体を
どう思っているかという意味で、
内からも直接に見ることができます。
この種の特異性を持っている存在は
この世には〈人間の身体〉、いいかえれば
〈わたしの身体〉というもの以外にありません。
それ以外のものは客観的に観察することができるか、
あるいは主観的に検討することができるか、いずれかです。
自分自身として内側からこれを見ることもできるし、
外側からも客観的に見ることができるという
二重性を持っているのは、
〈人間の身体〉というものしか存在しません。
そのことが身体というものを
特異な存在にさせていると思います。

【A091】「かっこいい」ということ──岡田有希子の死をめぐって

【A091】「かっこいい」ということ──岡田有希子の死をめぐって

時間:72分
音質:5
ジャンル:文学
講演日時:1986年5月4日
主催:マガジンハウス
場所:新宿・紀伊國屋ホール
収載書誌:弓立社『サクリファイス』(白倉由美著:1989年)

音源について
マガジンハウス主催
「鳩よ!」セミナーでの講演。
講演に先立つ4月8日には、
アイドル歌手・岡田有希子が
自殺する事件があった。
音源はライン録音。

講演より
「かっこいい」という言葉が
普遍性を持つようになったのは、
たかだか10年ぐらいのことだろうと思います。
なぜ「かっこいいか悪いか」という評価の基準が
発生したかというと、
僕の考えでは「離脱」ということが
現代の大きな問題になってきたからだと思います。
それまでは芸能人は芸能人の場所から、
主婦は主婦の場所からというように
それぞれの立場から社会現象を評価すれば
済んでいたわけですが、
現在はそれでは済まされなくなっています。
それぞれが役割を演じている閉じられた場所から、
本来的な場所を
探し求めなければならないという課題──つまり
「離脱」という課題が少なくともここ
10数年来出てきたということじゃないかと思います。
だから、「かっこよさ」には、
少なくともふたつの条件があると思います。
ひとつは、自分が役割として持っている
場所は危なっかしいものだぜ、ということを
とにかくまずわかるということです。
もうひとつは、本来的な場所を自分なりにつかむ
という課題を、自分が果たし続けることです。

【A049】障害者問題と心的現象論

【A049】障害者問題と心的現象論

時間:55分
音質:2
ジャンル:思想
講演日時:1979年3月17日
主催:富士学園 労働組合
場所:小金井公会堂
収載書誌:弓立社『心とは何か』(2001年)

音源について
客席から録音されているため
周辺のノイズが入っており、
音質はあまりよくない。

講演より
身体とは何か、身体の障害とは何か、精神異常とは何か、
それはどうすればいいのかということは、
人間の歴史が最後まで解決を残すだろう問題です。
〈肉体としての身体〉は、何十万年後になっても、
「どこが進化した、どこが退化した」と
変わることはそんなにないと思います。
しかし〈身体の像〉は時代によって
刻々と変わっていきます。
身体に関する障害や精神障害には、
神様に近いと崇められた古代から、
働けないから人間以下だと蔑まれた
近代社会に至るまでの、
目もくらむような価値観の変遷というものがあります。
けれども現代、精神障害、身体障害は
「神でもなければ人間以下でもない、それは人間なんだ」
という概念が少しずつ闘いとられてきつつある
ということが、
唯一の解決の糸口なんじゃないかと思われます。

【A102】都市論I──都市問題から見た天皇制

【A102】都市論I──都市問題から見た天皇制

時間:82分
音質:4
ジャンル:情況
講演日時:1987年9月12日
主催:中上健次/三上治/吉本隆明
場所:品川・寺田倉庫 T-33号館 4F
収載書誌:弓立社『いま、吉本隆明25時』(1988年)

音源について
中上健次氏、三上治氏と
吉本隆明の主催により
オールナイトで行われたイベント
「いま、吉本隆明25時」の講演。
主催者挨拶と
吉本隆明の1回目の講演を収録。
音源はライン録音されたもの。
ところどころマイクノイズがある。

講演より
民間の一資本が、皇族の土地を手に入れて、
とうとう天皇家の土地よりも
大きな土地所有者になったということは、
東洋的な君主という意味での天皇家の大きな柱を
すでに崩してしまったことを意味していると思います。
それは、歴史のある必然を象徴しているように思えて、
たいへん興味深いことだと考えます。
都市の収縮がこれから更に過剰になって、
ビル街が皇居周辺を囲んでしまったという場合を
想定しますと、皇居を売るときは
いつか来るじゃないかと思えてならないんです。
売っちゃって、京都御所なら京都御所に
引っ込もうと考えるときが、
ないとはいえないんじゃないかと思うのです。
僕の理解のしかたでは、それが、
都市問題から見た天皇制の問題です。

【A043】戦後詩における修辞論

【A043】戦後詩における修辞論

時間:121分
音質:3
ジャンル:文学
講演日時:1977年10月20日
主催:京都精華短期大学 学生部
場所:京都精華短期大学
収載書誌:京都精華短期大学「木野評論」第九号(1978年)

音源について
場所は、京都精華短期大学大教室。
一般の人にも開放され
他大学の学生の聴衆も多かった。
音源は主催者提供。
冒頭欠けており、ノイズも入る。
途中でテープが変わるため
音質が変わる。

講演より
歌謡曲やフォークソングの詞と現代詩を比較する場合、
直喩と暗喩を取り出す場合にだけ、
同じものとして扱うことができます。
ところが戦後の詩が突っ込んでしまっている
迷路ともいうべきものは、
無定形な喩、つまり直喩でも暗喩でもない
喩の使い方にあります。
それは曲に乗せることもできなければ
歌うこともできないものです。
これを理解するすべを考えると、
言葉というものは、発音や記号ではなくて、
それが思想だという全体的な見方を
とっていく必要があります。
このことは現代詩の詩人だけでなく、
フォークソングの作詞者たちが落ち込んでいる問題を
理解する為にも必要だと思われます。
それをつかまえることで現代詩が
フォークの作詞と共通に落ち込んでいるところから
抜け出す道が開けていくんじゃないかと思います。

この講演のテキストを読む

【A010】幻想──その打破と主体性

【A010】幻想──その打破と主体性

時間:55分
音質:2
ジャンル:思想
講演日時:1967年11月11日
主催:愛知大学 第21回愛大祭本部
場所:愛知大学 豊橋校舎9号館
収載書誌:勁草書房『吉本隆明全著作集14』(1975年)

音源について
テープが欠けているため
講演の前半部のみの収録。
周辺のノイズが入っており、
音質はあまりよくない。

講演より
氏族的な社会における共同幻想性は、どういうふうにして
部族統一国家における共同幻想性に転化するのでしょうか。
血縁集団を基盤にする氏族的な社会における
共同幻想というものは、もしなんらかの契機で
部族的な統一国家の共同幻想性へ転化していく場合には、
必ず個々における共同幻想性というものを、
慣行律、習慣、習慣的宗教というものの段階へ
蹴落とすことによって、統一国家の段階へ転化するのです。

【A004】現代とマルクス

【A004】現代とマルクス

時間:137分
音質:2
ジャンル:思想
講演日時:1967年10月12日
主催:中央大学 学生会館
場所:中央大学 学生会館 602号室
収載書誌:徳間書店『情況への発言』(1968年)

音源について
中央大学の学生会館による
自主講座として開かれた講演。
原題は「現代とマルクス主義」。
ところどころにノイズが入り、
聞き取りづらい個所がある。
途中で音声が遠くなる部分は
吉本隆明が黒板を使用している。

講演より
私がマルクスにおいてもっとも衝撃を受けたのは、
国家哲学なんです。われわれは戦争体験から、
市民社会における個人や家族よりも、
国家に重点がかけられるべきだという出発点を
持っていたわけです。しかしその国家が本当は
共同性を装った幻想に過ぎないというマルクスの考えに
衝撃を受けたんです。
マルクスの〈疎外論〉は、
幻想性の問題──国家、法律、宗教、それから芸術という
問題を考察する根底になるとても重要な概念です。
人間というものは、他の人間、あるいは自然に対する、
対象的な行為なしには存在しえません。
ところで人間が生存、存在の必須条件である
対象的な行為をしますと、自己自身がそれにつれて
本来的な自己から疎外される、
つまり自分自身も影響を受けます。
あるいは影響を受けることなしには
対象的な行為というのはなしえないというのが、
マルクスの考えている〈疎外論〉の
根底にある自然哲学です。

【A132】いまの社会と言葉

【A132】いまの社会と言葉

時間:110分
音質:4
ジャンル:情況
講演日:1990年12月12日
主催:白梅学園短期大学
場所:白梅学園短期大学
収載書誌:弓立社『大情況論』(1992年)

音源について
2週間前「現代用語の基礎知識」が
新語・流行語大賞を発表したので
「ファジー」「ちびまる子ちゃん」
などの言葉を取り上げていく。
音質はあまりよくないが、
ステージ近くで録音されたため、
内容は聞き取ることができる。

講演より
今日の言葉と明日の言葉とは
ちっとも変わっていないように見えるんですが、
1年なら1年、2年なら2年たつと、
いつの間にか変わっているという変わり方を
することになります。
もちろん断絶的に新語が勝手にできたということも
自由自在です。
しかしそうではなくて、1ヵ月や2ヵ月では
ぜんぜん変わっているとは思えないんだけど、
「候べし」と昔いってたのが、
500年もたつと、「そうだぞ」という言葉に
変わっています。
ところが501年、500年、499年前と連続的にとったら、
ちっとも変わり方がわからない。
それが蓄積すると変わっている。
言葉というのはそういう変わり方をする面があります。
言葉の断続性、新語とか流行語と同時に、
日本語は日本語じゃないかという連続性、
そのふたつの面をつくって、時代とともに
移っていくのです。
これが言葉の持っている生理・心理に属するわけで、
その背景の社会はそれぞれいろいろ
変わっていくことになります。

【A035】『死霊』について──東北大学にて

【A035】『死霊』について──東北大学にて

時間:105分
音質:3
ジャンル:文学
講演日時:1976年5月11日
主催:東北大学学友会文芸部/「濫觴」同人/現代イデオロギー研究会 後援:東北大学教養部、学生自治会臨時執行部
場所:東北大学 川内記念講堂
収載書誌:未発表

音源について
「高橋和巳追悼・
『死霊』完成記念講演会」
と題された催しでの講演。
ノイズや残響音が入っているが
比較的クリアに収録されている。
埴谷雄高氏の『死霊』は、
本講演の前年である1975年、
26年ぶりに「第五章」が発表。

講演より
太平洋戦争と現在では呼ばれている戦争を、
何らかの意味で否定する考え方を、
文学か思想によって完結しようとした
本当にまじめな人間がいたとしたら、
その人は絶対に
戦後に生きては存在することができなかったと思います。
にも関わらず生きてしまったとすれば、
それはどこかで矛盾を抱え込んだということです。
そしていまもなお、矛盾を抱え込んで、
何らかのかたちでそれを解き明かしながら、
また矛盾を呼び込むということに悪戦苦闘している、
そういう文学者は少数ですけれどもいるわけです。
その象徴となりえる人が埴谷雄高という文学者だと、
僕には思われます。

この講演のテキストを読む

【A021】南島論

【A021】南島論

時間:281分
音質:5
ジャンル:文学
講演日:1970年9月3日/10日
主催:筑摩書房
場所:新宿・紀伊國屋ホール
収載書誌:春秋社『〈信〉の構造 PART3』(2004年)、中公文庫『語りの海1 幻想としての国家』(1995年)

音源について
1969年に刊行された
学問案内のシリーズ
「筑摩総合大学」のPRで
計画された講演。
音源は主催者提供。

講演より
〈南島〉は、日本の民俗学あるいは文化人類学にとって
宝庫だといわれているところで、
さまざまな古い遺習が残っていますが、
われわれは、それとはまったく違う理論的視点を
前提としています。
たとえば、ニューギニアの奥地にはまだ
石器時代の生活をしている種族がいるとか、
サハラ砂漠の近辺に行くと
太古の遊牧民さながらの生活をしている種族がいるという
いわれ方があります。
しかし、そういう未開の種族もまた
世界史的現在のなかに存在しています。
その意味をどうとらえたらいいのでしょうか。
そういう種族や日本の〈南島〉を扱うとして、
ただ古き良き時代の名残がなんらかのかたちで残っている、
という扱い方ではなく、
世界的同時代性、現代性というものの視点を包括しながら
それを扱うにはどうしたらいいか、ということは
依然として問うに値する問題であると思われます。

【A101】マス・イメージからハイ・イメージへ

【A101】マス・イメージからハイ・イメージへ

時間:91分
音質:3
ジャンル:思想
講演日時:1987年7月16日
主催:河合塾
場所:河合塾 名駅キャンパス16号館
収載書誌:河合文化教育研究所『幻の王朝から現代都市へ──ハイ・イメージの横断』(1987年)

音源について
河合塾名駅キャンパス16号館の
オープニングで行なわれた。
音源は客席から録音されたが
比較的クリアに収録。

講演より
ランドサット映像のいいところは、
ひとつの地図というものが
さまざまな歴史的時間を包括することができる
ということです。
たとえば神話時代の視線は、
村落の外れにある低い山や丘の頂から村落を俯瞰する、
500~600メートルくらいの高さからの
視線であったことがわかります。
この視線は歴史が発展するとともに
高度を増して現在に至っています。
現在、イデアルにいえば、
無限遠の高さからの視線を考えることができるわけです。
ごくふつうの人たちが
無限遠の高さからの視線を獲得できたとき、
現在900~200キロメートルの視線を
独占するかどうかで争っている、
ふたつの世界権力の視線を超えたことを
象徴すると思います。

【A099】ハイ・イメージを語る

【A099】ハイ・イメージを語る

時間:143分
音質:3
ジャンル:思想
講演日時:1987年5月16日
主催:京都書院
場所:京都書院ヴァージョンB 4F ヴァージョンG
収載書誌:未発表

音源について
冒頭の司会で音が乱れるが
比較的クリアに収録。
テープチェンジのため講演の最後と
質疑応答の冒頭と最後が欠け
途中で音質が変わる。

講演より
現在、僕がイメージについて考えていることが
ふたつあります。
ひとつは〈イメージの交換〉がたやすくなっている
ということです。
もうひとつは、〈限界というイメージ〉が
可能になってきたということです。
たとえば、空間がたくさん重なったところでは、
実際にはひとつの視野で
現実のビル街の光景を見ているのに、
現実のビル街を見ているのではなくて
イメージを見ているように錯覚されるところがあります。
それは、イメージと現実が転倒してしまうということです。
また、あそこは山だ、丘だ、あそこが限界だと思って
宅地開発していくと、限界が見えているのに、
近づいていくとまた遠のいていくということがあります。
どこに限界を定めていいのか
イメージが明瞭に浮かんでいながら、
いざそこへ近づくと限界は遠のいてしまう。
この問題は、制度の問題、産業の問題など
すべてを象徴するに足るふたつの流れだと思います。

この講演のテキストを読む

【A071】小林秀雄と古典

【A071】小林秀雄と古典

時間:106分
音質:3
ジャンル:文学
講演日:1983年5月26日
主催:神奈川県高等学校教科研究会国語部会
場所:神奈川県政総合センター
収載書誌:中公文庫『語りの海2 古典とはなにか』(1995年)、弓立社『超西欧的まで』(1987年)

音源について
はステージから離れた
客席から録音。
小林秀雄は、この講演が行われる
3か月ほど前に亡くなった。

講演より
僕らが小林秀雄にかすかに違和感を感じたのは、
敗戦の後でありました。
戦後、こちらは急に戦争から放り出されて、
どうしたらいいかわからないし、また、
どんな思想を真と認めればいいのかわからないで、
たいへん落ち込んだ時期がありました。
そういうときに、小林秀雄が
何か発言をしてくれたらいいな、
そうしたらそこから何か得られるのにという感じで、
ずいぶん待っていたわけですけれども、
小林秀雄は戦争から放り出された青年の心のなかに
もぐりこんでくる発言をしてくれなかった
というように思います。
それでもう、自分でもって自分の落ち込んだところは
つかんでいく以外ないと思いつめて、
そのあたりから自分は違う道を行っているんだな
という感じ方をとったのを覚えています。

【A054】親鸞の教理について

【A054】親鸞の教理について

時間:91分
音質:2
ジャンル:宗教
講演日時:1980年5月24日
主催:上智大学東洋宗教研究所/上智大学キリスト教文化研究所
場所:上智大学 521番教室
収載書誌:春秋社『〈信〉の構造 PART1』(2004年)

音源について
「日本人と宗教性」と題した
連続講演会における最終日の講演。
声が若干遠く聞こえ、
ところどころノイズが入っており
背景に会場周辺の音楽が聞こえる。
討論部分は途中でテープが切れる。

講演より
もし、知識を〈本当の知識〉として
獲得できるとすれば、
知識を獲得することが同時に
反知識、非知識、あるいは不知識というものを
包括していくことなんです。
知識を〈往きの姿〉でとらえれば、
学問のない人が修行をして知識を
獲得していく過程になります。
往きの過程にある限り、人間の〈本当の知識〉が
獲得されることはない。
知識に対して〈還りの姿〉になっていったときにはじめて、
知識が獲得されたということになります。
それは、知識を獲得すればするほど
知識でないものを包括していくということです。
包括できなければならないということです。
この〈往きの姿〉と〈還りの姿〉というものの
考え方を通して、親鸞はわれわれの思惟のしかたのなかに
普遍的にある問題を提出しているということが
いえるのです。

【A042】竹内好の生涯

【A042】竹内好の生涯

時間:171分
音質:4
ジャンル:文学
講演日時:1977年10月1日
主催:山口県内吉本さんを呼ぶ会
場所:山口県立図書館レクチャールーム
収載書誌:弓立社『超西欧的まで』(1987年)

音源について
山口県内の有志が催した講演会。
音源は主催者提供。
クリアに収録されているが
音質のよいものをつないだため
途中で音質が若干変わる。
竹内好氏は本講演の
半年前に亡くなった。

講演より
僕はある時期から、竹内好さんと、
理念的には同じからざる道を歩んだように思います。
けれど、竹内さんの「思想の肉体」はたいへん好きでした。
そういう意味では自分と本当は
よく似たところがあるのではないかと思います。
ひとりの思想家が、生涯において成しうることは
たいしたことはありません。
しかし何がためにひとりの思想家は
ある時代に存在し続けるかと考えてみますと、
「自分が一刻も頭から去らないほど
労苦して考えに考え抜いてやっとつかまえたもの」
が、後の世代の人たちにとって、
何となく自然に身につけている、
その地点に出会うためです。
それが、ひとりの思想家が生涯にわたって
存在し続けることの意味だと思います。
竹内好さんの思想は、そういう徒労に値するものとして、
今後本格的に検討されることを信じて疑いません。

この講演のテキストを読む

【A152】寺山修司を語る──物語性のなかのメタファー

【A152】寺山修司を語る──物語性のなかのメタファー

時間:114分
音質:2
ジャンル:文学
講演日時:1993年4月10日
主催:風馬の会
場所:早稲田奉仕園 レセプションホール
収載書誌:情況出版『寺山修司の世界』(1993年)

音源について
周辺のノイズが入っており、
音質はあまりよくない。
『寺山修司の世界』には
「物語性のなかのメタファー」
として収載されている。

講演より
僕は自分のことも
そういうふうに思うことがあるのですが、
寺山さんというのはたいへん孤独な人だったと思うのです。
たとえばインディアンに囲まれたアメリカの騎兵隊とか、
騎兵隊に囲まれて砦にこもったインディアン、
比喩でいうとそうなると思います。
砦のなかに本当はひとりしかいないのに、
こっちの銃眼から鉄砲を撃ったかと思うと、
また違う窓から鉄砲を撃つ。
そうやって、たくさんいるかのごとく
見せ掛けなくてはならなかったのです。
寺山さんは、短歌や俳句から、詩、散文、小説や戯曲まで、
あらゆることに手を出しています。
砦にこもった単独者のとても大きな特色だと思います。
色々なことに手をつけて、色々なところで
色々な弾を撃たなければならないというところは、
寺山さんのいちばんいいところだという気がします。

【A013】高村光太郎について──鷗外をめぐる人々

【A013】高村光太郎について──鷗外をめぐる人々

時間:90分
音質:3
ジャンル:文学
講演日:1968年3月7日
主催:文京区立鷗外記念本郷図書館
場所:文京区立鷗外記念本郷図書館
収載書誌:弓立社『吉本隆明全講演ライブ集 第10巻』(2005年)

音源について
森鷗外の旧居跡地にあった
鷗外記念本郷図書館で行われた。
音源は主催者提供。
ステージ付近で録音されたため
音声はクリアに聞くことができる。

講演より
高村光太郎という詩人は、複雑な思想を、
複雑に表現するというようなことはしていません。
しかし、本来的にはたいへん
気味の悪い芸術家だと思います。
気味の悪いといっていいのか、
得体が知れないといっていいのかわかりませんけれども、
とにかくそうとうなしろものだと思います。
そうとうな人だということを、
『道程』とか『智恵子抄』のような作品の背後に、
つかんでいかないと、
高村光太郎という人の総体的な人間像は、
うまくつかまえてこれないんじゃないかと思います。

【A052】ホーフマンスタールの視線

【A052】ホーフマンスタールの視線

時間:146分
音質:2
ジャンル:文学
講演日時:1979年11月15日
主催:京都精華短期大学 学生部
場所:京都精華短期大学
収載書誌:弓立社『吉本隆明全講演ライブ集 第16巻』(2006年)

音源について
場所は京都精華短期大学大教室。
一般の人にも開放され、
他学生の参加も多かった。
音源は主催者提供。
入力音ノイズなどが入っており、
音質はあまりよくない。

講演より
ホーフマンスタールの考え方は、
日本の浪漫的な考え方の詩人、
文学者たちがよく受け入れた考え方です。
無意識のうちに受け入れ、
そして無意識のうちに実現していた考え方です。
堀辰雄でも立原道造でも、また芥川龍之介でも、
文学が文学である本質的なものが含まれているとすれば、
それはたぶんホーフマンスタールが
〈深淵〉としてとらえた、意識のある空白性の状態を、
作品のなかに形象化できていることだと思います。
ホーフマンスタールが〈深淵〉という概念でいうのは、
一種の歴史概念に近いものです。
歴史概念であり、神話概念であり、
同時に神話概念のいわば否定の瞬間になっているものです。
あるいはそれが無化される瞬間、
あるいは伝統性というものが無化される瞬間としての
意識の空白、それを〈深淵〉と
ホーフマンスタールは名づけていると理解されます。
このことはホーフマンスタールの
浪漫的な概念のうちで重要な問題です。

この講演のテキストを読む

【A018】敗北の構造

【A018】敗北の構造

時間:32分
音質:3
ジャンル:思想
講演日時:1970年6月10日
主催:社会主義学生同盟/南部反帝戦線明学大班
場所:明治学院大学100番教室
収載書誌:弓立社『敗北の構造』(1972年)

音源について
社会主義学生同盟
明治学院大学支部と
南部反帝戦線明学大班の主催による
〈6.10反帝戦線・社学同政治集会〉
での講演。
周辺のノイズや残響音が入っているが
比較的クリアに収録されている。

講演より
日本に統一国家というものが成立した千数百年前以前に、
この小さな島に人間がいなかったかというと、
そんなことはありません。
日本民族という場合には、
統一国家成立以降の文化的、言語的に
統一性をもったものを想定しているわけですけれども、
それは日本人とはまるで違います。
日本人という場合には、日本国家成立以前に、
すでに郡立した多数の国家が存在していたと
考えることができます。
僕のいう「敗北」は、そういう
たいへん大昔の敗北ということです。
何が敗北したかというと、
天皇制権力によって統一国家が成立する以前に存在した、
日本の全大衆が総敗北したということです。
その「敗北の構造」は、現代に至っても
依然として存在しているのです。

【A005】ナショナリズム──国家論

【A005】ナショナリズム──国家論

時間:98分
音質:2
ジャンル:思想
講演日時:1967年10月21日
場所:新宿・観音寺
収載書誌:未発表

音源について
第22回独立講座に招かれて
行われた講演。
客席から録音されているため
周辺のノイズが入っており、
音質はあまりよくない。

講演より
ボクシングでいいますと、やっぱり
世界タイトルというのは思想的に
奪取しなきゃいけないんです。
たとえばサルトルという人が、
日本という国家的土壌にいたとすれば、
大した人じゃないと思うんです。
しかし、ヨーロッパの土壌にのっかっている人ですから、
いい加減なやつだなぁと思うけれど、
みっちりやったら日本人である僕が
必ず負けるということはやはりわかるんです。
しかし、「それでもやる、必ず勝つ」という問題は、
どうしても持たざるをえないことがあるんです。
本当の意味の世界普遍性というものを
獲得していくためには、非常に困難な道を
歩まなければならない。
一民族、一種族、一部族の共同性というものに
固執するわけでもなんでもないけど、
それが制約している問題と、
経済的範疇としての世界性の矛盾というのは
どこにあろうと絶えず持たざるをえないということは
必ずあると思っています。

この講演のテキストを読む

【A085】文芸雑感

【A085】文芸雑感

時間:101分
音質:1
ジャンル:文学
講演日時:1985年9月7日
主催:梅光女学院大学
場所:梅光女学院大学
収載書誌:未発表

音源について
梅光女学院での講演。
原題は
「文芸雑感──
現代文学の情況にふれつつ」。
講演後半部は別テープの音が
重なってしまっているため、
たいへん聞き取りづらい。

講演より
僕は、『言語にとって美とはなにか』で、
文学作品を言語の表現として見た場合に、
どういう問題があるかという文章を書いたことがあります。
それは「言語表現としての文学」という観点で
文学の作品を理論化していったということだと思います。
僕がいましたいことは、
「イメージの美としての文学とはなにか」ということです。
イメージの普遍的な理論のなかに、
文学作品についての評価の仕方も含めてしまいたい。
それが文芸批評の当面しているひとつの
課題であると思います。

この講演のテキストを読む

【A012】幻想としての国家

【A012】幻想としての国家

時間:105分
音質:2
ジャンル:思想
講演日:1967年11月26日
主催:関西大学千里祭
場所:関西大学
収載書誌:中公文庫『語りの海1 幻想としての国家』(1995年)、徳間書店『情況への発言』(1968年)

音源について
学園祭の講演であるため、
他の催事の音が混じることもあり
聞き取りづらい部分がある。
途中、若干音声が遠のくのは、
黒板を使用しているため。

講演より
幻想としての国家というのは何かといいますと、
国家の本質ということを意味しています。
もちろん国家には、幻想としての国家というものが、
たとえば法なら法というものによって維持されていくという
法機関、法権力機関というものはあるわけですけれども、
機関としての国家ではなく、
幻想としての国家ということで何を意味するかということ、
国家の本質ということのお話をしていきたいと思います。

【A087】心的現象論をめぐって

【A087】心的現象論をめぐって

時間:54分
音質:3
ジャンル:思想
講演日:1985年10月18日
主催:紀伊國屋書店
場所:新宿・紀伊國屋ホール
収載書誌:弓立社『心とは何か』(2001年)

音源について
紀伊國屋書店出版部
30周年記念講演会として行われた。
総合タイトルは
「心的現象論と暗黙知の理論」。
クリアではないが
講演自体は聞き取ることができる。

講演より
あるとき、未知の読者だという人から電話がかかってきて、
「自分は1ヵ月ぐらい前に交通事故で
手をひじの下から落としてしまった。
しかし落としてしまったそのこと自体がよくわからない」
というのです。
「それを教えてくれないか」という電話を
いただいたことがありました。
「いやおれもわからない」と答えました。
だけどその人がわからないという意味は
とても深刻なように聞こえました。
つまり、手を交通事故で偶然落としちゃったということを、
以降1か月ぐらいたっているけれども、
そのこと自体がどうしても自分でのみ込めない。
そののみ込めないということが、
かなり深刻な意味で問われていました。
僕はまったくそれに対して答えることができませんでした。
これは少しこの問題をやってみよう、と思いました。

【A001】芸術と疎外

【A001】芸術と疎外

時間:96分
音質:5
ジャンル:思想
講演日時:1964年1月18日
主催:国際基督教大学ICU祭実行委員会
場所:国際基督教大学 DMH講堂
収載書誌:未発表

音源について
第10回ICU祭にて、
特別講演として行なわれた講演。
年代は古いが
クリアに収録されている。

講演より
芸術をつくる者と、創造された芸術のあいだには、
眼に見えない〈橋〉があります。
それを僕の言葉では〈自己表出〉といいます。
〈自己表出〉の構造は、眼に見えるものではありません。
その眼に見えない構造が、芸術が現在の社会に対して
何を与えるか、何を与えないかという問題の
非常に重要な契機になっていきます。
「現実に対して自己が自己たりえない」という
自己疎外の問題に対して、芸術が何を果たしうるかは、
そういう問題点をつかまえていかないと
はっきり出てこないのです。

この講演のテキストを読む

【A076】小林秀雄を読む──自意識の過剰

【A076】小林秀雄を読む──自意識の過剰

時間:101分
音質:2
ジャンル:文学
講演日時:1984年3月16日
主催:寺小屋教室
場所:新宿・紀伊國屋ホール
収載書誌:思潮社『白熱化した言葉』(1986年)

音源について
講演は連続シンポジウムの第一部
「現代を読む──小林秀雄を語る」
という原題のもと行なわれ、
講演者は吉本隆明のほか
秋山駿氏がいた。
音質はあまりよくない。
冒頭は録音者の手元ノイズのため
聞き取りづらい。

講演より
小林秀雄はわが国の近代批評の祖のような批評家です。
小林秀雄が文学批評のなかに「自意識」という起源を
定めたとき、はじめて日本の近代批評が
はじまったといえます。
それ以前の批評では、
「他者を批評することは自分を批評することと同じだ」
という意味で成り立っている批評文は
存在しなかったといっていいくらいです。
この人を無視して日本の近代批評は語れないわけです。
僕らも繰り返しそこに立ち戻っていかなければ
いけませんし、みなさんも文学批評というものに
関心を持たれたなら、
この人のものを読めばあとは要らないというほど
重要だと思います。

【A034】文学の現在

【A034】文学の現在

時間:153分
音質:4
ジャンル:文学
講演日時:1975年10月16日
主催:京都精華短期大学 学生部
場所:京都精華短期大学
収載書誌:白地社「而シテ」5号(1976年)

音源について
場所は、京都精華短期大学大教室。
一般の人にも開放され、
他大学の学生の参加も多かった。
音源は主催者提供。
テープ交換のため途中で音質が変わる。

講演より
文学が幸福になるときがあるのかもしれないけれど、
少なくとも歴史を省みる限りは、
文学が幸福だったということはまずないわけです。
文学が本質を目指すならば、
それはしかたがないと思うんです。
ただ、文学にもし影響力というものがあるとすれば、
「人を揺すぶる」ことが本質的には
できることじゃないかと思います。
「文学というのはアルファからオメガまでやるんだよ」
ということを現在的に指し示すことによって、
「政治だって経済学だって
ここからここまでやればいいんじゃないんだよ、
はじめから終わりまでやんなきゃだめですよ」
というふうに、揺すぶらなくてはしかたがないと思います。
それは、文学だけしかできないんじゃないかという
気がします。
その課題は、すぐれて現在的な課題だと思われます。

この講演のテキストを読む

【A075】漱石をめぐって──白熱化した自己

【A075】漱石をめぐって──白熱化した自己

時間:166分
音質:3
ジャンル:文学
講演日時:1983年11月12日
主催:日本近代文学会
場所:武蔵大学
収載書誌:思潮社『白熱化した言葉』(1986年)

音源について
手元ノイズが入っている
個所があるものの、
全体を通してクリアに収録。

講演より
漱石の作品でいちばん魅力的なのは、
作品の登場人物を自分なりに設定しながら、
ある個所に来ると作者自身が作品のなかに乗り出して
登場人物に感情移入して白熱するところだと思います。
そこでは作品の登場人物と作者が融合してしまい、
その個所が作品でいちばん白熱してしまうのです。
もちろん物語ですから巧みに設定されておりますが、
主人物には作家・漱石のもっと根底にある、
人間・漱石みたいなものの自己移入が
必ずあるように思います。
そこのところが漱石文学の
いちばんの魅力であると思います。

【A162】物語について

【A162】物語について

時間:127分
音質:3
講演日時:1994年6月12日
主催:リブロ 西武池袋本店
場所:西武百貨店 池袋本店
収載書誌:未発表

音源について
雑誌「試行」が書店リブロで
取り扱われることになり、
書店の企画で行われた講演。
音源は主催者提供。
テープの反転によって欠けている部分を
別の音源で補っているため、
一部音質が変わる個所がある。

講演より
物語とは何かということを考えると、
たとえば『今昔物語』では、いちばんはじめに
「いまは昔」といいます。
そして、終わりに「何々であるとかや」というのが
くっつきます。
これが、文学作品にあらわれた物語の形態認識のひとつで、
いちばん重要なものです。
日本の明治以降の近代小説では、たとえば漱石が、
もっとも遠くまで形態認識を展開させた人です。
そこでは、独立した自我というものの意識があって、
他者と考えられた自分以外のぜんぶのものとの葛藤が
物語になっていきます。
漱石は、「人間の存在感とはかかるものか」という
実存的な領域まで、
とことん形態認識をやったことになります。
僕が欲張りをいえば、現在では、
近代的自我の確立とか、
その高度化は現在では自慢にも課題にもならないけど、
依然としてそれが課題になってしまっていたり、
安堵感になっているというのが、
いまの物語ではないでしょうか。

この講演のテキストを読む

【A172】フーコーについて

【A172】フーコーについて

時間:137分
音質:3
ジャンル:思想
講演日:1995年7月9日
主催:リブロ 池袋本店
場所:西武百貨店 池袋本店
収載書誌:弓立社『吉本隆明全講演ライブ集 第7巻』(2004年)

音源について
雑誌「試行」が書店リブロで
取り扱われることになり、
書店の企画行われることになった
講演シリーズの6回目。
音源は主催者提供だが、
全体的に少し音が割れている。
冒頭に若干欠けている部分がある。

講演より
フーコーには重要な意味があるなと最初に思ったのは、
この人がマルクス主義的な方法とまったく違ったやり方で、
権力の問題とか国家の問題を扱っているところでした。
最初にフーコーの『言葉と物』を読んだときに驚いたのは、
マルクス主義あるいはマルクスの考え方の
枠組みのなかにない方法で、
だいたいマルクス主義が手を伸ばしている
あらゆる分野に適用できる「知の考古学」という
まったく独立した方法がここにあると思えたところです。
フーコーとは自分にとってなんであるかというとすれば、
けっきょくそこが中心になってきます。

【A145】文芸のイメージ

【A145】文芸のイメージ

時間:114分(うち質疑応答13分)
音質:3
ジャンル:文学
講演日時:1992年11月3日
主催:梅光女学院大学
場所:梅光女学院大学
収載書誌:未発表

音源について
梅光女学院での講演。
周辺ノイズが入っているが、
比較的クリア。

講演より
日本でアンケートをとると、国民のうち8割9分の人が
「自分たちは中流だ」という意識を持っているという
結果が出てきています。
「明日食べるためのお米がない」ということが
なくなってしまっていることは、まったく新しい時代です。
そういう人たちが何を悩みとするかと考えると、
だいたいにおいて精神的に正常であるか
異常であるかという、眼に見えない境界線を
行ったり来たりしている状態になりつつあり、
そういう人たちが増えつつあるという現状があります。
それを文学作品として感受しているというのが、
現在書かれている純文学の状態ではないかと思われます。

この講演のテキストを読む

【A058】ドストエフスキーのアジア

【A058】ドストエフスキーのアジア

時間:72分
音質:2
ジャンル:文学
講演日:1981年2月7日
主催:ロシア手帖の会 協賛・新潮社
場所:渋谷・東京山手教会
収載書誌:弓立社『超西欧的まで』(1987年)

音源について
「ドストエフスキー死後百年祭」で
行われた。
全編に周辺ノイズが入っている。
教会で行われたため音が響くが
ライブ感あふれる録音。
会場は満員であった。

講演より
ドストエフスキー的な主人公である
『白痴』のムイシュキン公爵のような性格は、
一見すると現代的です。
そしてこれを現代的と解する限り、
病的あるいは異常という類型にあたります。
病的、異常であるがゆえに、
自分の振る舞いや自分の招き寄せてしまう悲劇に
無意識なのだと解されるのです。
けれどそう解したとき、
なぜかドストエフスキーが
これらの主人公たちに抱いている親愛感や、
それに応えるような主人公たちの
何ともいえない規模の大きさのようなものが、
見落とされてしまうような差異感を覚えます。
僕たちはどうしても、
ドストエフスキーが自分の作品世界に、
眼に見えないロシアのアジア古代的な感性や
思想性の枠組みを施しているという
仮定に導かれるのです。

【A164】心について

【A164】心について

時間:124分
音質:3
ジャンル:思想
講演日時:1994年9月11日
主催:リブロ 西武池袋本店
場所:西武百貨店 池袋本店
収載書誌:筑摩書房「ちくま」1995年1月号、2月号

音源について
雑誌「試行」が書店リブロで
取り扱われることになり、
書店の企画として行われた
連続講演の2回目。
音源は主催者提供。
客席録音だが比較的クリア。

講演より
心の病というのは、人間の心の世界の大きさを
最大限に大きく見積もって考えれば、
病気じゃないといえばいえてしまうところがあります。
病気なんてもともとない、
人間の精神、意識の働き方の世界の可能性のなかの、
あるところに偏った意識の
偏り方の場所を閉めているのが病気だといってみたり、
異常だといったに過ぎないんだよ、
ということになると思います。
ただ、病気だといわれている状態は、
現在の日常生活にとっては
不自由な状態に違いないということになります。
「この境界を超すと正常だしこの境界を超すと異常だ」
という境界線に対しては、
さまざまな局面で自覚的で意識的になるというやり方が
いいんじゃないかと思います。
そういうことで、古典的な「心の病」の区別は
少なくなると思います。
それに代わるものとして、
ヒステリー症による人格転換ということと、
同性愛の問題は、
心の世界の問題をとりあげる場合に
欠くことができない問題になっていくと思います。

この講演のテキストを読む

【A119】日本農業論

【A119】日本農業論

時間:214分
音質:3
ジャンル:情況
講演日時:1989年7月9日
主催:雑誌「修羅」同人
場所:長岡短期大学
収載書誌:弓立社『吉本隆明全講演ライブ集 第10巻』(2002年)

音源について
講演は午前をかけて行われ、
午後の討議・質疑応答を含め
約3時間半にわたる全編収録。
音源は主催者提供。客席から録音。

講演より
日本の農業が当面している問題から、
日本の農業の歴史的問題と、それから
一般に農業はどうあれば理想的な状態なのかということを、
いかに浮かび上がらせることができるでしょうか。
農業問題に関する限り、エンゲルスもマルクスも、
個人の欲望や私有という問題をどうするんだと
いうところまで浸透していくだけの理論が
ありませんでした。
それがいま、矛盾をきたして
あらわれているのだと思います。
マルクス主義者や進歩派というのは、
「農業はどうあったら理想なのか」ということが
いえないのです。僕は、
「小さな自作農がそれほどの格差もなく一面に並んで、
農業を自営している」
かたちというのは、かなり理想に近いと思っています。
日本の農業は国有化されればいいとはちっとも思いません。
自立農業にとって利益がある限り、
国有化・共有化したほうがよろしいと思います。

【A154】斎藤茂吉の歌の調べ

【A154】斎藤茂吉の歌の調べ

時間:91分
音質:5
ジャンル:文学
講演日時:1993年5月14日
主催:斎藤茂吉記念館
場所:山形・上山市民会館
収載書誌:コスモの本『余裕のない日本を考える』(1995年)

音源について
斎藤茂吉の生まれ故郷である
山形県上山市の
斎藤茂吉記念館によって行われた
斎藤茂吉追慕全国大会での講演。
たいへんクリア。

講演より
緊張した詩を書いたまま、若くして死んじゃったという
詩人はいるんですけれども、
茂吉のように長生きした人で
最後まで衰えを知らない作品をまっとうした詩人は
ほかにいないように思います。
斎藤茂吉という人の初期の作品を評価するにせよ、
後期の作品を評価するにせよ、
大変な歌人で、日本の詩歌というものの伝統を
文学全般のなかに導き入れるということを初めてやり、
また最後まで衰えなかったという意味あいで、
明治以降のなんともいえない高嶺なんだなあと思います。

【A083】マス・イメージをめぐって

【A083】マス・イメージをめぐって

時間:122分
音質:5
ジャンル:文学
講演日時:1985年7月1日
主催:前橋市・煥乎堂
場所:前橋市民文化会館 小ホール
収載書誌:未発表

音源について
「煥乎堂文芸講座」として
開かれた講演会。
音源は主催者から提供。
たいへんクリアに収録。

講演より
黒柳徹子の『窓ぎわのトットちゃん』と
マルクスの『資本論』を、
片方の場合に程度を下げるのではなく、
同じ言葉で論ずるということは、
カルチャーとサブカルチャーの違いが
あまり明瞭でなくなった現在に対する批評のあり方として、
きわめて重要なことではないかと思います。
批評というものが
作品の本質をいい当てるということならば、
CMや漫画といった
サブカルチャーにこだわっていかざるをえないという
問題が、どうしてもあると僕は考えます。
こういうものを、純文学でもないし
純芸術でもないということで排除しておいたら、
批評という概念が成り立つかどうか、
僕は疑問とするわけです。

この講演のテキストを読む

【A033】フロイトおよびユングの人間把握の問題点

【A033】フロイトおよびユングの人間把握の問題点

時間:140分
音質:2
ジャンル:思想
講演日時:1975年10月11日
主催:山王教育研究所
場所:山王会館(国電大森駅ビル4階)
収載書誌:弓立社『知の岸辺へ』(1976年)

音源について
山王教育研究所が主催する
「山王サイコセラピーセミナー」
の講演。
め周辺のノイズが入っており、
音質はあまりよくない。

講演より
ユングは自伝のなかで、
フロイトとの決別の場面を象徴的に語っています。
それはばからしいといえばばからしいし、
たいへんなことだといえばたいへんなことです。
あるとき、フロイトとユングが超心理学の話をしていて、
いまの言葉でいえば超能力についてどう思うか、
とユングがフロイトにいうわけです。
それに対してフロイトは、それはお話にならないから、
まじめに相手にしない、みたいな感じで応対します。
そうしているうちにふたりがしゃべっているそばの本棚が
ガタガタと揺れ出す。
ユングにいわせれば超能力的に
そういうことが起こったんだけれども、
フロイトはそれを承認しない。
その現象は、テレビの茶番劇にもなりうるわけですけども、
それが人間の精神の解析について、
すぐれたふたりの巨匠を別れさせるきっかけにも
なりうるという意味あいで、
決して無視することはできないことじゃないかと思います。

【A123】イメージとしての都市

【A123】イメージとしての都市

時間:108分
音質:3
ジャンル:情況
講演日時:1989年11月12日
主催:ことばをひらく会
場所:尼崎市 つかしん
収載書誌:産経新聞社「正論」90年4月号・5月号

音源について
1985年に西武グループによって
開発されたショッピングセンター
「つかしん」のイベントの講演。
イベントは2部構成となっており、
第1部は吉本隆明の講演、
第2部は笠原芳光氏との対談。
客席録音だが比較的クリア。

講演より
イメージは、かつては力でなく
空想に過ぎませんでした。
「金もないのにそんなこと思ったってしかたないじゃないか」
ということでした。
政府がやれば、自治体がやれば、大資本がやれば、
それでペチャンコじゃないかと思われていました。
かつてはそうでしたが、われわれの段階では
そうではないのです。
「完結したイメージを持つことができる」
ということは、それだけで
実現可能性を持った力だという段階に
現在は達しているんです。
都市を構想することはできる、ということなんです。
逆に、都市をつくるものは、
万人が持っているイメージを無視することはできないと
思います。実際には、大資本でも、国家でも、
地方自治体でも、誰がやってもいいんです。ただし
「あんたたちのイデオロギーを、理想の人工都市のなかで
自己主張してもらっては困りますよ」
というチェックを、それぞれがやればいいと思うんです。
大事なことは、それぞれの人が、
理想の人工都市を自分のイメージで
ちゃんとこしらえることです。
自分なりに完成したイメージを
われわれが持っているならば、
誰もそれを無視することはできないと僕は思います。

この講演のテキストを読む

【A059】現代文学の条件

【A059】現代文学の条件

時間:125分(うち質疑応答28分)
音質:3
ジャンル:文学
講演日時:1981年7月3日
主催:梅光女学院大学
場所:梅光女学院大学
収載書誌:未発表

音源について
梅光女学院での講演。
音源は主催者提供.
会場内のノイズが入っている。
ープ反転のため一部音質が変わる。

講演より
現代文学が強いているのは、
「物語性の喪失」ということです。
作品の緊張度を保とうとすると、
物語というものを喪失せざるをえないというジレンマが、
現代文学が当面している大きな条件でもあります。
そういう条件のなかで、
若い作家が無意識のうちにとっている
ひとつの解決のしかたがあります。
それはイメージの氾濫ということです。
そのイメージには意味をつけようがなく、
泡のようにはかないもので、
ただイメージだけが氾濫しています。
しかし現在の若い作家は、そのことによって
現在の文学が当面している大きなジレンマを
無意識に解こうとしているように思われるのです。

この講演のテキストを読む

【A175】親鸞の造悪論

【A175】親鸞の造悪論

時間:81分
音質:3
ジャンル:宗教
講演日:1995年11月19日
主催:東洋大学二部印度哲学科学生/東洋大学全学学園祭実行委員会
場所:東洋大学白山キャンパス
収載書誌:春秋社『宗教の最終のすがた』(1996年)

音源について
東洋大学白山祭シンポジウム
「現代日本の信」の第1部で
「親鸞復興」という原題。
音源は主催者提供だが、
スピーカーから遠い客席から録音。
反響音などで聞きづらい部分あり。

講演より
オウム・サリン事件で僕なりに
いろんなことを考えました。
親鸞が「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」と
いっているのは一種の逆説で、
逆説のほうが通りやすいといいますか、
持続しやすいということがあって、
どんどん突き進んでいったというふうに
僕は考えてきていました。
ところが、親鸞はもしかすると、
いまのオウム・サリン事件みたいな問題に現実に直面して、
これを肯定していいんだろうか、よくないんだろうか、
と本気になって考えさせられたあげくに、
「造悪」、悪を進んで造る「極悪深重の輩」を
自分の「善悪」観のなかに包括できるという確信を
持てるようになるまで考え抜いて、
それで「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」と
いうことをいったんだ、と僕は考えてみました。

【A136】農業から見た現在

【A136】農業から見た現在

時間:122分
音質:3
ジャンル:情況
講演日:1991年11月10日
主催:雑誌「修羅」同人 後援・弓立社
場所:長岡市・中越高等学校会議室
収載書誌:未発表

音源について
音源は主催者提供。
客席から録音されたものだが、
比較的クリア。しかし、
講演の最後の部分で録音が終わる。

講演より
はっきりわかっていることは、
先進諸国においては農業、もっといいますと第一次産業、
あるいはもっといいますと
自然を相手にして生産する産業は、
減少する一方だということです。
減少する速度はそれぞれですが、
減少することは歴史の必然、文明の必然であって、
これを変えることはできないと僕は思っています。
これを遅くしたり、あるいは止めたりということは
政策いかんによってできないことはありませんが、
文明の発達が第一次産業を減少させていくことは
きわめて自然必然、歴史必然だろうということは
間違いないことです。

この講演のテキストを読む

【A097】詩魂の起源

【A097】詩魂の起源

時間:62分
音質:3
ジャンル:思想
講演日時:1986年11月23日
主催:思潮社
場所:新宿・紀伊国屋ホール
収載書誌:思潮社『詩とはなにか──世界を凍らせる言葉』(2006年)

音源について
思潮社創立30周年を記念して
開かれたイベントでの講演。
音源は客席から録音されたが
比較的クリアに収録。

講演より
詩が発生するときにまでさかのぼった過去に、
詩はどう考えられていたかというと、
「魂の気配を察知すること」自体が詩であると
思われていました。
言葉に表現する以前の段階で、
ただ気配のようなものがあったとき、
それを察知できるということが
「詩の行為」だと考えられていたということです。
ここから始まって、言葉を使って
他人や対象に魂の在り処をつけてしまうことが、
言葉が介入した以後の詩の表現でした。
平安朝の末期頃まで、たとえば恋愛の場合には、
「相聞」というかたちで詩が存在したわけです。
相聞というのは言葉を使って、
相手に自分を無理矢理にでもくっつけてしまうことです。
ここらへんまでがたぶん、われわれの歴史のなかで、
仏教みたいなものが入る以前における、
詩的な行為の上限と下限だと考えられます。

【A022】文学における初期・夢・記憶・資質

【A022】文学における初期・夢・記憶・資質

時間:90分
音質:3
ジャンル:文学
講演日時:1970年11月2日
主催:東京女子大学短期大学部
場所:東京女子大学短期大学部
収載書誌:弓立社『敗北の構造』(1972年)

音源について
東京女子大学短期大学部の
学園祭での講演。
周辺のノイズや残響音が入るが
比較的クリアに収録されている。

講演より
僕は、12、3歳の頃でしょうか、当時の市電に乗って、
切符を買おうと慣れないために緊張してお金を出すと、
車掌が素知らぬ顔で自分の前を
さっさと通り過ぎて行ってしまうということがありました。
「どうしておれの前だけ止まってくれないのだろう」
という行き違いのようなことが
とても引っかかった時期があります。
そのことから導いたのは、
「タイミングがあわない」ということは
自分の資質ではないかということでした。
この社会にいながら、成長し、そして
老いていく過程のなかで、
なぜ自分のところにだけ
こんなことが降りかかるのだろうとか、
なぜ自分のときだけ行き違いが起こるんだろうか
という体験は、みなさんも記憶の片隅や気持ちのどこかに
とどめていることがあると思います。
そういうことは、掘り下げるに値する
問題ではないでしょうか。

【A126】つくば、都市への課題

【A126】つくば、都市への課題

時間:93分
音質:3
ジャンル:情況
講演日時:1990年5月18日
主催:筑波西武リブロブックセンター
場所:エキスポセンター コズミックホール
収載書誌:未発表

音源について
講演時間は2時間だったが
吉本隆明の体調不良のため
1時間30分に変更された。
音源は主催者提供。
ところどころマイクノイズあり。

講演より
都市というのは、非常に嫌らしい本質を持っています。
都市は、産業が高次化して農業や漁業のような
第一次産業が衰退していけばいくほど成長します。
次に、第二次産業、製造業が
大きくなればなるほど成長します。
しかし第三次産業に重点が移っていったとき、
都市はなお成長します。
これは感情論でもなければ倫理の問題でもありません。
数学の定理のように、産業が高次化するほど
都市は成長するということです。
それが歴史の発展する方向であることは
疑いないと思います。
産業の高次化と都市の成長が比例関係にあるという定理を
冷静に見つめて分析し、
さまざまな条件をとりだしたうえで、
これを理想の状態に近づけるには
どういう考慮が必要なのかを問題にすべきだと思います。

この講演のテキストを読む

【A082】「現在」ということ

【A082】「現在」ということ

時間:67分
音質:3
ジャンル:情況
講演日:1985年3月30日
主催:山梨県石和町教育委員会
場所:石和町中央公民館
収載書誌:思潮社「現代詩手帖 7月号」(1985年)

音源について
昭和60年度石和町成人講座
遊・学イベント『た・だ・い・ま』
での講演。
吉本隆明をあわせて
3人の講演会が行われた。
音源は主催者提供。
聞き取りやすいが、
周辺ノイズが入る個所がある。

講演より
テレビにおける萩本欽一みたいな
偉大なタレントがもうくたびれちゃったから
番組をちょっと降りさせて休ませてもらうよっていったり、
五木寛之がかつて少し小説を書かないで
休んでいたいよっていったりしましたが、
これは彼らが芸術や文学として
絶えず新しさを求めて競争をする世界で
活動をしてきたからだと思います。
絶えず新しさを生み出すという衝動を何年も続けてきて、
やっぱりくたびれたというところにきたということだと
思います。「
もう降りる以外に自分は存立できない」という危機感を
覚えたときに、偉大なる萩本さんは
番組からちょっと降りて考えたいとか、
休みたいと考えるわけです。
「どうやって登るのか」が問題になる芸能家、
芸術家がいるのと同じように、そこでは
「どうやって降りるか」という、贅沢な悩みですけど、
それはそうとうきわどい悩みなんです。
それは「現在」というものの本質につながる悩みです。
あまり関係のないタレントの問題だよ、
というふうに思わないほうがよろしいと思います。

【A057】戦後文学の発生

【A057】戦後文学の発生

時間:141分(うち司会19分)
音質:5
ジャンル:文学
講演日時:1980年11月29日
主催:宮城学院女子大学 日本文学会
場所:宮城学院女子大学
収載書誌:未発表

音源について
宮城学院女子大学の
日本文学会の招きによって
行われた講演。
音源はたいへんクリア。
一部音質が悪くなる個所がある。

講演より
〈発生〉というのは非常に不安定な状態です。
いつ消えてしまうかもわからない不安定な状態ですが、
同時に何とでも結びつくことができる活性力を持っている。
何かと強力に結びついて持続するかもしれないけれども、
結びつくものがなければ
そのまま消えてしまうかもしれない。
不安定さと活性を持った〈発生〉の状態の戦後文学のなかに
何があったのか。
何かに結びついていまも持続している要素は何か。
もはや跡形もなく消えてしまった要素は何か。
敗戦を迎えた1945年の8月から、
ほんの数年のあいだに出てきた
日本文学の作品のさまざまな要素を
〈発生〉ということで取り上げれば、
大きく分けてふたつのことを
象徴させることができると思います。

この講演のテキストを読む

【A030】文芸批評の立場から見た人間理解の仕方

【A030】文芸批評の立場から見た人間理解の仕方

時間:44分
音質:1
ジャンル:文学
講演日時:1973年11月17日
主催:東京都立精神医学総合研究所
場所:東京都立松沢病院 4階大会議室
収載書誌:弓立社『知の岸辺へ』(1989年)

音源について
「現代における
精神医学研究の課題」
と題して開かれた研究会で
行われた講演。
テープ劣化がひどく、
たいへん聞き取りづらい。

講演より
文学の立場というのは、一言でいいますと
「言葉で表現する立場」ということです。
その本筋は、大昔にさかのぼれば〈歌〉にあります。
〈歌〉というのは、2千年とか3千年とか、
そうとう古い時代からあった、韻文──リズムの入った
言葉の表現です。
この〈リズム〉というのは、いまでいえば
神がかりの状況に入ったときに出てくるものです。
文学者というのは、さかのぼってゆけば
神がかりの状況の人間にいきつくわけです。
そうすると、神がかりの状態というのが、
文学者にとって根本的な立場ということになると思います。

【A084】アジア的と西欧的

【A084】アジア的と西欧的

時間:127分
音質:4
ジャンル:思想
講演日時:1985年7月10日
主催:リブロ 西武池袋本店
場所:西武百貨店 池袋店 スタジオ200
収載書誌:弓立社『超西欧的まで』(1987年)

音源について
ライン録音。
たいへんクリアだが、
ところどころに
音が割れるように聞こえる
個所がある。

講演より
日本は現在、西欧型の先進的社会に突入しています。
ただ、複雑なことは、〈アジア的〉という概念が
一枚加わらないと、日本社会の完全なイメージが
描けないということです。
日本の現在の社会のなかに〈アジア的〉意識が
どんなふうに〈手段〉の分野で存在しているか、
どういうふうに産業・芸術・文学の分野で
存在しているかという問題が残されているのです。
日本の社会は、西欧における
「西欧的思考の解体作業」にも参加せざるをえないし、
ある場合にはそれを推進せざるをえないというところに
おかれています。しかし同時に
〈アジア的〉意識というもののあり方を、
二重性として勘定に入れなければなりません。
こんなことは西欧社会では不要なことでしょうし、
西欧社会が日本の社会を見る場合に
誤解しているところかもしれません。
また、そこに、日本の社会が西欧の社会にとって、
大きな意味をもって浮かび上がってくるように
見える理由があるのかもしれません。

【A006】詩人としての高村光太郎と夏目漱石

【A006】詩人としての高村光太郎と夏目漱石

時間:127分
音質:2
講演日時:1967年10月24日
主催:東京大学三鷹寮委員会
場所:東京大学三鷹寮
収載書誌:徳間書店『情況への発言』(1968年)

音源について
東京大学三鷹寮委員会の招きで
三鷹寮寮祭で行われた講演。
ノイズも多く、ところどころに
聞き取りづらい個所がある。

講演より
文学芸術に関する限り、問題の本質は
手仕事をやるかやらないかということで決まるのです。
手仕事というのは、毎日のように机の前に
原稿用紙をおいて、ペンを持って、机の前に坐って、
なんかやるということです。
何も書くことがなく、気分ものらなくても、
やっぱり原稿用紙を前において、ペンをとって、
そこに坐って、「さて」ということで
やろうということです。
そういうことを持続できるかできないかということが、
文学の創造の中心を決定していくんです。
それをやらなければ、文学芸術、つまり
観念のつくるものが、具体的な現実に
よく拮抗することができないんです。
それに耐えたうえで、文学芸術における思想の問題、
あるいは資質の問題というものが
はじめてあらわれてくるのです。
明治以降の近代文学、芸術のなかで、
確かにそういうことをしたといいうる人は、
わずかに作家としての漱石、それから
詩人・彫刻家としての高村光太郎だけです。

【A159】社会党あるいは社会党的なるもののゆくえ

【A159】社会党あるいは社会党的なるもののゆくえ

時間:112分
音質:2
ジャンル:情況
講演日時:1993年11月26日
主催:社会党
場所:社会文化会館5階ホール
収載書誌:弓立社『吉本隆明全講演ライブ集 第9巻』(2005年)

音源について
同年7月の総選挙での大敗を受け
社会党本部の要請により行われた。
音源は客席から録音されているため
反響音や音割れ、ノイズがあり、
音質はあまりよくない。

講演より
自衛隊問題と憲法とを矛盾なしに整合するには、
小沢一郎のいい方がいちばん妥当なわけです。
僕は、ソフトであってかつ温和な社会党の考え方は、
そのなかにじゅうぶん含まれうると思います。
また、社会党の別のラディカルな部分にとっては、
それはやっぱり名目的に認められない、
ということになると思います。
社会党は、そのどちらをも選ぶ領域があるんだと思います。
もしそれが社会党内部で矛盾だったら、
「さよなら」すればいいわけです。
僕はどちらだっていいんじゃないかと思います。

【A040】『最後の親鸞』以後

【A040】『最後の親鸞』以後

時間:125分(うち質疑応答38分)
音質:4
ジャンル:宗教
講演日時:1977年8月5日
主催:真宗大谷派関係学校宗教教育研究会
場所:新潟県妙高市・東本願寺池ノ平青少年センター
収載書誌:春秋社『〈信〉の構造 PART1』(2004年)

音源について
ライン録音ではないがクリア。
真夏の講演で、途中夕立が起こり、
雨音や雷鳴も収録されている。
質疑応答の最後で録音が切れる。

講演より
『最後の親鸞』もそうでしたけれど、
僕は親鸞の思想に重点をおいてとりあげようと思います。
信仰ということと思想ということはどこが違うかというと、
信仰の場合にはあくまでも内部の側にあって
語ることになっていくと思います。
けれども思想は、内部から語るというよりも、
内部と外部の境界に踏石をおいて、
ひとりの宗教家であった思想家をとりあげる、
ということです。
内部にも行くかもしれませんけれども、
外部にも行ってしまう、そういうところが
思想ということと信仰ということの違いといえます。
すぐれた宗教家であると同時に、
思想の立場からとらえても対象として充分に耐えうる
日本ではたいへんめずらしい思想家である親鸞を、
思想としてさらに問題にしたいと思っています。

【A167】25年目の全共闘論──『全共闘白書』を読んで

【A167】25年目の全共闘論──『全共闘白書』を読んで

時間:60分
音質:3
ジャンル:情況
講演日時:1995年1月18日
主催:プロジェクト猪/『全共闘白書』編集委員会
場所:永田町・星陵会館
収載書誌:プロジェクト猪『いのししブックレット2 25年目の全共闘論『全共闘白書』を読んで』(1995年)、弓立社『吉本隆明全講演ライブ集 第9巻』(2005年)

音源について
『全共闘白書』(新潮社)の
刊行を機に開かれた
シンポジウムの講演。
この講演のほか、小坂修平氏や
切通理作氏らによる討論があった。
反響音や手元ノイズがあるが、
比較的クリアに収録されている。

講演より
『全共闘白書』の最初のところに
72項目のアンケートがあります。
僕が読んでいちばん関心を持ったのは
このアンケートでした。
こういうアンケートの設問のしかたは、
「社会的なこととか公共的なことは重要で、
個人的なことが最重要課題だということは
情けないことなんだ」
というような観点が、
無意識のうちにあるような気がします。
僕はそれは絶対にやめたほうがよいと思います。
そういう発想をしている限り、
「おれは大衆の前衛であって、みんなついて来い、
おれが啓蒙してやる」
みたいな勢力にかなわないんです。
そうじゃなくて私のこと、自分のこと、
それから子どものこと、家庭のことが大切なんだ、
それが最緊急課題なんだという観点を根本に据え、
それを基盤に政治的なこと、
社会的公共的なことを考える考え方に
転倒しないとだめなんです。

【A129】都市論としての福岡

【A129】都市論としての福岡

時間:186分
音質:4
ジャンル:情況
講演日:1990年9月3日
主催:「パラダイスへの道」出版委員会
場所:福岡市早良区市民センター
収載書誌:パラダイス企画『パラダイスへの道’ 91』(1991年)

音源について
『パラダイスへの道’90』
出版記念として福岡で行われた。
音源は客席で録音されたものだが、
質疑応答も含め全編クリア。
一部、音量のバランスが悪くなる。

講演より
都市論ということは、さまざまな観点と視点を
持つでしょうけれども、僕らの視点からいえば、
都市論は国家論と同じことなんです。
また、九州一円についての都市について論ずることは、
世界全体について論ずることと一向に変わりなく、
同じことなわけです。
都市と都市を比較するということは、
先進国と後進国を比較するというのと同じ意味を持ちます。
たとえば福岡市と鹿児島市、
あるいは福岡市と熊本市のデータを比べて、
さまざまな観点から比較をしますと、
世界における先進国と後進国、
あるいは先進地域と後進地域との格差が
どのように縮まるかとか、
いや格差は縮まらないんだとか、
そういうことについての判断のモデルになりうるのです。

【A070】『源氏物語』と現代──作者の無意識

【A070】『源氏物語』と現代──作者の無意識

時間:123分
音質:3
ジャンル:文学
講演日:1983年3月5日
主催:山梨県石和町教育委員会
場所:石和町中央公民館
収載書:思潮社『白熱化した言葉』(1986年)

音源について
「源氏物語を読むなら
どの現代語訳がいいか?」
というテーマからはじまる。
ステージから離れた客席から録音。
本講演から半年ほどさかのぼる
1982年10月には
吉本隆明著『源氏物語論』が刊行。

講演より
『源氏物語』の作者の無意識までも
こちらに移ってくるように、微細な部分まで
作品を読むことができるようになったときにはじめて
『源氏物語』を現代風に読むことができた
ということになります。
本来的には原文を抜きにして
そういう微妙さが伝わる読み方が
できるわけはないといういい方もできそうですけれども、
僕の考え方では、現代語訳でも十分です。
作者と語り手と、登場人物の言動とは
みなそれぞれ違うものなんですよという区別をしたうえで
作品を読まれることによって、
『源氏物語』の現代的な読み方の基本点を
つかまえることができると思います。

チャプター

01 司会 02:07

(1) どの訳本を読むか
02 与謝野晶子訳がいい 09:20
03 具体的に訳本を比べる 08:40
04 微妙な心理の匂いをどう訳すか 10:37
05 与謝野晶子の自在な訳 12:33

(2) どう読むか
06 心の動きをとらえる視線 05:27
07 千年前の作者の無意識 11:34
08 作者と作品のなかの語り手の分離 04:24
09 『源氏物語』を現代風に読む 10:51

(3) 作中の人々
10 内面描写の例──若菜の巻 07:16
11 紫の上の心の動きを描くマジック 09:44

(4) 源氏物語の背景
12 宮廷世界と一夫多妻制 06:43
13 女性文化への転換期 09:05
14 よく涙を流す登場人物 05:09
15 自然を言葉の文法としてみる感性 09:33

【A027】鷗外と漱石

【A027】鷗外と漱石

時間:83分
音質:3
ジャンル:文学
講演日:1971年10月14日
主催:文京区立鷗外記念本郷図書館
場所:文京区立鷗外記念本郷図書館
収載書誌:弓立社『敗北の構造』(1972年)

音源について
森鷗外の旧居「観潮楼」跡地にあった
鷗外記念本郷図書館で行われた。
音源は主催者提供。

講演より
当時の文学者でいえば、鷗外と漱石は、
格段に学があって、格段に見識があって、
相互に意識して、はりあっているみたいな要素が
ほのかに見えます。
たとえば鷗外の『ヰタ・セクスアリス』という小説を
読みますと、漱石の『吾輩は猫である』を読んで、
おれも書きたくなったというような個所があります。
そういう意味で、少なくとも
「おれと同じくらいな奴は、あいつだけだ」
というふうには意識していたかもしれません。
それ以外に、個人的に交渉があったとか、
親しかったとかいう痕跡はありません。
そういう意味では共通性も関係性も
それほどないといえます。
それでも、無理にあげようとすると、共通性はあります。
両者とも、当時の日本の文学の主流であった
自然主義文学に対して、何らかの意味で別の道を、
方法上でも、仲間意識でも持ちました。
それからもうひとつ、
これも大きな共通点だと思いますけれども、
鷗外も漱石も奥さんが悪妻だったということです。
そういうふうにいわれています。

【A138】像としての都市

【A138】像としての都市

時間:129分(うち、質疑応答26分)
音質:4
ジャンル:情況
講演日:1992年1月21日
主催:NKK都市総合研究所
場所:大手町・日本鋼管本社ビル
収載書誌:弓立社『吉本隆明全講演ライブ集 第11巻』(2005年)

音源について
8人連続講演会
「アーバンコンファレンス21」
として行われた講演。
他の出演者には藤森照信氏、
荒俣宏氏、中村桂子氏など。
周辺ノイズが入るが
内容はクリアに聞き取れる。

講演より
ひとつのビルがどうなっていくのが理想なのかを
追究することと、
都市がどうなっていくのが理想なのかを追究することと、
国家社会がどうなっていくのが理想なのかを
追究することはぜんぶパラレルで対応する、
そういう考え方を僕はしてきました。
どんな国家社会が理想的な社会かというのを弾き出す場合、
主観的に、あるいは知的に
「これが理想なんだ」といっても、
そんなことはちっとも当てになりません。
理想の設計という場合、他者というのが必要です。
理想というのは先端的であればいいか、新しければいいか、
間違っていないやつを選べばいいかといったら
そんなことはないので、いつでも一般人的なもの、
平均人的なもの、あるいはそのときの平均都市的なものを
絶えず他者としてこっちに持っていなければ、
どんな先端的な試みも危ういでしょう、と
僕は考えています。

【A146】鷗外と東京

【A146】鷗外と東京

時間:72分
音質:3
ジャンル:文学
講演日時:1992年11月8日
主催:文京区立鷗外記念本郷図書館
場所:東京大学 安田講堂
収載書誌:弓立社『吉本隆明全講演ライブ集 第10巻』(2005年)

音源について
吉本隆明の講演の前には、
江藤淳氏による講演
「鷗外と明治」があった。
音源は主催者提供。

講演より
鷗外は、文学者、軍人、医学者と
3つぐらい面倒くさい衣を着て、
たいへん我慢に我慢を重ねた生涯を送った人だと思います。
そして最後に、「えいっ」と、
「東京もいらない、官庁もいらない、軍人もいらない」
というふうになって、
「岩見の人、森林太郎というのだけでたくさんだ」
という遺言をして亡くなる。
どれをとっても一流の3つの衣が、
もう重たくてやりきれないということになって、
ぜんぶほっぽり出しちゃったというイメージで理解すると、
たいへん理解しやすいような気がします。
ここらへんの交錯し錯綜するところが鷗外の全体像であり、
また東京に対する鷗外の私的な好みと
公的な見解とのありどころだったんじゃないかというふうに
思われます。

【A089】鷗外と漱石の見た東京

【A089】鷗外と漱石の見た東京

時間:52分
音質:2
ジャンル:文学
講演日時:1986年1月31日
主催:東京都文化振興会
場所:安田生命ホール
収載書誌:弓立社『吉本隆明全講演ライブ集 第10巻』(2005年)

音源について
東京都文化振興会による雑誌
「東京人」の創刊を記念した
イベントでの講演。
吉本隆明の前に篠山紀信氏、
小林信彦氏による講演があった。
音質はあまりよくない。

講演より
鷗外の文学作品における東京への関心は、
「紅灯の巷」的なものへの関心です。
そうした情緒へのエロス的な傾斜と、
軍医総監あるいは衛生学の専門家としての
近代都市東京に対する見識が
総合的に統一されたということは、
鷗外のなかでなかったと思います。
衛生学による都市論と、彼の小説に現れた東京には
一種の空隙があります。
漱石のなかにも、文明苦としての東京というものと、
自然としての東京というものとのあいだに、
やはり空隙があるということができると思います。
漱石がそれを何で埋めたのかはよくわかりません。
たぶんそこの空隙を埋めたいというモチーフを
最後まで持ち続けながら、
しかしそれを埋めることができないで、
『明暗』という作品を書いている途中で
死んだというのが漱石の文学的生涯だと思われます。

【A088】都市を語る

【A088】都市を語る

時間:57分
音質:3
ジャンル:情況
講演日時:1985年10月22日
主催:慶應義塾大学 学生部
場所:慶應義塾大学 日吉キャンパス 33番教室
収載書誌:弓立社『像としての都市』(1989年)

音源について
慶應義塾大学学生部による
課外教養企画として行われた。
反響音や録音者の手元のノイズや
話し声の聞こえる個所があるが、
比較的クリア。
途中で音質が変わる個所がある。

講演より
東京は現代的な都市のなかで
もっとも複雑でもっとも興味深く、
もっとも無秩序な町だと思います。
この都市がどこに行くのかを追求していくことは、
単に都市がどうなるのかということだけでなく、
日本の社会あるいは日本の社会を典型とする
高度な資本主義社会というものが
こへ行くのかを追求することになると思います。
そして、東京は高度な資本主義社会にも関わらず、
成り立ちからいうと東洋的な都市の起源を
含んでいるわけですから、
これがどこへ行ってしまうのかを示唆するという意味でも、
とても重要な問題のような気がします。

この講演のテキストを読む

【A098】ぼくの見た東京

【A098】ぼくの見た東京

時間:121分
音質:2
ジャンル:情況
講演日時:1987年1月17日
主催:中央区立京橋図書館
場所:中央区役所 8階大会議室
収載書誌:弓立社『像としての都市』(1989年)

音源について
「東京を語る会」の
第50回記念講演として行われた。
音源はVHSテープから
音声データを抜き出したもの。
講演冒頭部分が欠けている。

講演より
東京に住んでいる人が東京を見る見方というのは、
ひとりひとり違うと思います。
その人の住んでいる町ないし都会に対する見方を
決定するものは、ふたつあると思います。
ひとつは、幼児期あるいは少年期の町の体験です。
もうひとつは、青春期に入ってから体験した
他の町のことです。そのふたつのことが、
都市を見る見方を大きく決めるんじゃないかと思われます。
僕の場合それは、新佃島というところにいたことと、
青春期に東京を離れたという体験になります。
そうした体験から、ご承知の通り
子どものときとは比べものにならないくらい
大都市になった現在の東京を、
僕がどう見るかという見方の場所に
出て行きたいと思います。

この講演のテキストを読む

【A144】わが月島

【A144】わが月島

時間:82分
音質:3
ジャンル:情況
講演日時:1992年10月31日
主催:中央区立月島図書館
場所:中央区立月島図書館
収載書誌:弓立社『吉本隆明全講演ライブ集 わが月島』(2004年)

音源について
主催者から提供を受けた
VHSテープから
音声データを抜き出したもので、
クリアに収録されている。

講演より
月島の歴史をひもといて見ていくと、
日本の明治以降の近代の、
封建時代から超現代的なところまで
駆け足で通り過ぎてしまった歴史を、
非常によく象徴的にあらわしていると思います。
僕も子どものときの町で懐かしいですから、
初期の月島のイメージと思い出に浸ることも
たくさんあるんですが、実際問題としていいますと、
月島というのはそういうところを通り過ぎていて、
途方もないところに入って、それを背負っているんだよ、
ということを考えたほうがよろしいんじゃないでしょうか。
かつての初期の月島、佃島を振り返ると
懐かしさもひとしおですし、
否定性もひとしおだとなると思いますが、
それがいちばんよろしいんじゃないかと思えます。

【A011】人間にとって思想とは何か

【A011】人間にとって思想とは何か

時間:128分
音質:2
ジャンル:思想
講演日時:1967年11月21日
主催:國學院大学文芸部 共催・國學院大学文化団体連合
場所:国学院大学412教室
収載書誌:勁草書房『吉本隆明全著作集14』(1975年)

音源について
校内放送をはじめ周辺のノイズが
多く入っており音質はよくない。
質疑応答も途中で切れている。

講演より
個人幻想と共同幻想の差異、そして
家族という対幻想から共同幻想への展開には
断層と飛躍の契機があります。
文学芸術という個人的な幻想の世界から、
共同性の問題にとびつく国家と政治というものに至る
道程というものが、いかに長く、
いかに手続きを要するかを考えてみますと、
政治と文学を単純に結びつける考え方が
いかにでたらめであるかということがわかります。
そういうことが、表現としての言語の理論というものを
追求させた非常に根本的なモチーフなんです。

【A007】自立的思想の形成について

【A007】自立的思想の形成について

時間:63分
音質:2
ジャンル:情況
講演日時:1967年10月30日
主催:岐阜大学
場所:岐阜大学
収載書誌:勁草書房『吉本隆明著作集14』(1972年)

音源について
明治大学駿台祭での講演。
音源は客席から録音されたもので
音質はあまりよくない。

講演より
私どもの考えでは、〈経済的範疇〉、
いいかえれば〈自然的範疇〉というものは
必ず〈幻想的な範疇〉を生み出していきます。
人間が外部の〈自然〉に関わると、
必ず〈幻想性〉を発生させるわけです。
人間の意識にやってくる〈自然的範疇〉は
必ず〈幻想性〉を伴うから、〈国家の経済的範疇〉は、
必ず〈共同幻想としての国家〉を生み出します。
そういう国家の共同幻想性と本質的に対決しうる
唯一のものは、個人幻想です。
文学芸術に属する個人幻想というものだけが、
本質的な意味で、国家の共同幻想性というものに
対峙することができるわけです。
知識人が、「法的言語に対して〈沈黙の意味性〉でもって
服従している大衆」を、
自分の思想のなかに組み込むという問題が可能であるとき、
かろうじて知識人の共同性としての集団というものが
反体制的でありうるわけです。

この講演のテキストを読む

【A003】国家・家・大衆・知識人

【A003】国家・家・大衆・知識人

時間:80分
音質:3
ジャンル:思想
講演日時:1966年10月31日
主催:大阪市立大学社会思想研究会/大阪市立大学新聞会
場所:大阪市立大学
収載書誌:徳間書店『情況への発言』(1968年)

音源について
年代は古いが
クリアに収録されている。

講演より
〈大衆の原型〉というのは、
自己の生活の繰り返しの範囲でしか
自分の考えを動かさないということです。
大衆はどういう歴史のくぐり方をしてきたかを
考えてみますと、たとえば中野重治の
「村の家」という作品に出てくるような
おやじさんというのは、一面でいうと
赤紙がくれば即座に応じて兵隊となって戦争へいき、
自分の命がなくなっても戦争をやる。
そしてある場合には戦争をやり過ぎて、
軍部上層の意図を超えて残虐行為もやってしまう。
つまり、〈大衆の原型〉は、国家から支配されれば
支配のままに揺れ動くとともに、本当の意味では
国家と接触さえもしていない存在として考えられます。
そのことは、大衆が近代的意識を
乗り越えてしまう基盤を持つひとつの契機を
なすのではないか、という考え方も成り立ちえます。
知識人であることの意味は、
いかにして〈大衆の原型〉が本質的にはらむ問題を、
自己の思想の問題として組み込むことができるか
という問題を避けない、ということです。

この講演のテキストを読む

【A002】自立の思想的拠点

【A002】自立の思想的拠点

時間:74分
音質:3
ジャンル:情況
講演日時:1966年10月29日
主催:関西学院大学
場所:関西学院大学
収載書誌:徳間書店『状況への発言』1968年

音源について
関西学院大学
創立77周年記念祭での講演。
年代は古いが比較的クリアに
収録されている。

講演より
おそらくみなさんは、自分自身を
知識人じゃないと考えているかもしれませんし、
知識人と考えたって、「お前とおれは違う」と
思っているかもしれません。
けれど、僕のいう知識人という本質概念からすれば、
みなさんは明らかに知識人なんです。
なぜならば、日常食って生活して、
また労働力を再生産してというだけじゃなくて、
余計なことを考えているわけですから。
みなさんがどういう政治イデオロギーを有し、
どういう政治的潮流に属し、
あるいは政治的無関心であろうとも、
そんなことに関わりなく、否応なしに
現実の諸問題というものが自分のところに
覆いかぶさってくるという位相を、
避けて欲しくないと思います。
そういうことを避けることができない者こそ、
本来の知識人である、それが知識人の思想的課題であると
僕はいいたいわけです。

【A182】ふつうに生きるということ

【A182】ふつうに生きるということ

時間:79分
音質:5
ジャンル:思想
講演日時:2003年9月13日
主催:ほぼ日刊イトイ新聞
場所:東京国際フォーラム ホールC
収載書誌:ぴあ『智慧の実を食べよう。』(2003年)

音源について
ほぼ日刊イトイ新聞
創刊5周年として開かれたイベント
「智慧の実を食べよう。
300歳で300分」
の講演。他の講演者には、
詫摩武俊氏、藤田元司氏、
小野田寛郎氏、谷川俊太郎氏。
音源はライン録音でクリア。

講演より
僕は、ふつうに生きている人、
あるいはそういう生き方を
すでにやっている人の生き方が、
いちばん価値ある生き方だと、理想としています。
何かを膝にかけて、一日黙りこくって細工物をしている、
何かのデザインを描いたり、
染織物をしたりして、一日終わる。
日常いつでもありふれたことなんですけど、
そういうことで一日を送っているような人が
テレビなんかに出てくると、
これは偉い人だよ、たいしたもんだよと思って、
おれもまねしたいもんだなと思うわけです。

【A122】宮沢賢治の実験

【A122】宮沢賢治の実験

時間:181分
音質:3
ジャンル:文学
講演日時:1989年11月12日
主催:森集会
場所:芦屋市民センター
収載書誌:春秋社『本当の考え・うその考え』(1997年)

音源について
ことばをひらく会の主催による講演
「イメージとしての都市」の、
午前中から行われた講演。
音源は主催者提供。
講演の冒頭部分が若干欠けている。

講演より
科学的にいって、死んだ後の世界があって、
そこに魂がいくという考え方を是認することは
どうしてもむずかしい。
もし「本当の考え」と「うその考え」とを
分けることができる実験の方法さえ決まれば
解決するでしょうが、
それはどうしたらいいのかわからない。
糸口は自分なりにつけてはみたんだけど、
そこで完全に解けたといえないところで、
宮沢賢治は終わったと思います。
「その実験の方法さえ決まれば」
という言葉はとても重要で、
それは日蓮もいわなかったし、
もちろん最澄も智ギもいわなかったことで、
宮沢賢治だけがいった言葉です。

【A177】いじめと宮沢賢治

【A177】いじめと宮沢賢治

時間:187分(うち質疑応答58分)
音質:3
ジャンル:文学
講演日時:1996年5月11日
主催:高崎哲学堂
場所:群馬県高崎市 高崎ビューホテル
収載書誌:未発表

音源について
群馬県高崎市の文化振興に取り組む
高崎哲学堂が月1回著名人を招いて
開く催しでの講演。
この年は宮沢賢治の生誕百年。
周辺のノイズが入っているが
比較的クリアに収録されている。
司会の最後の挨拶の途中で
テープが切れる。

講演より
子どものいじめの世界は、
宮沢賢治の童話が描いているなかに
ぜんぶ入ってしまうと思います。
その範囲を出てしまういじめというのは
ちょっと考えられないのではないかというくらい
用意周到に描かれています。
これは宮沢賢治の宗教意識にもよりますし、
いじめた経験はないけれどもいじめられた経験はある、
ということにもとづいていると思います。
宮沢賢治のなかでは、僕らが考えているよりも
ひと回り大きく精神の範囲がとられていて、
そのなかで考えているから、
救いが出てくるということになるのではないかと思います。

この講演のテキストを読む

【A038】宮沢賢治の世界

【A038】宮沢賢治の世界

時間:134分
音質:4
ジャンル:文学
講演日時:1976年10月21日
主催:京都精華短期大学 学生部
場所:京都精華短期大学
収載書誌:白地社「而シテ」7号(1977年)

音源について
場所は、京都精華短期大学大教室。
一般の人にも開放され、
他大学の学生の聴衆も多かった。
音源は主催者提供。
質疑応答は途中で切れている。

講演より
宮沢賢治は、挫折もあり苦悩もあり失敗もありという
生き方をしています。
口でいろいろいうけれど、
あるいは言葉でいろいろなことを書いたけれど、
けっきょくは何もできないで
終わってしまったではないかといえるところで、
宮沢賢治は死んだと思います。
しかし、もしも人間の行為・表現の概念を、
現実的な表現行為に限定しないで、
幻想的な表現もある、死への表現もある、
死後の世界への表現もあるというふうに
拡張していくとすれば、
宮沢賢治は近代日本の文学者として、
人間として、最大限に行けるところまで
行ったように思われます。

この講演のテキストを読む

【A178】賢治の世界

【A178】賢治の世界

時間:83分
音質:3
ジャンル:文学
講演日時:1996年6月28日
主催:千葉県高等学校教育研究会国語部会
場所:千葉県立銚子高校
収載書誌:未発表

音源について
宮沢賢治の生誕100年に当たる年
に行われた講演。
音源は主催者提供の
VHSテープから音声を抜き出した。
クリアに収録されているが、
講演途中までの収録。

講演より
宮沢賢治の作品は、
「初期の段階から中期に行って、後期はこうだった」
という考え方をとると
はぐらかされてしまうところがあります。
あくまで現在にいるのですが、
以前の自分の感性や体験したことが、
一種の考古学的な層として
基礎の方に横たわっているのです。
以前の考え方や書かれたものは、
下の層になってなかなかあらわれてはこないけれども、
層としてはちゃんとある。
そして、そういうものが重なったのが現在です。
だから、未開の時代の人類が考えたことを
自分のなかに再現することもできるし、
現在のことも再現することができると、
宮沢賢治は考えているのです。

この講演のテキストを読む

【A125】宮沢賢治を語る

【A125】宮沢賢治を語る

時間:114分
音質:3
ジャンル:文学
講演日時:1990年2月10日
主催:朝日カルチャーセンター
協賛:コニカ生涯学習セミナー
場所:津田ホール
収載書誌:弓立社『吉本隆明全講演ライブ集 第8巻』(2004年)

音源について
客席から録音されているため
周辺のノイズが入っているが
比較的クリア。

講演より
宮沢賢治はたいへんな農業科学者ですが、
「来世が存在するということを
科学者として信じることができたのか」
ということが問題です。宮沢賢治という人は、
そこで思い悩んだと思います。
自分の抱いている宗教観と、
科学者として身につけている
自然認識や物質についての認識、農業についての知識が
どこかで一致する点はないか、
どこかで一致させることができないだろうかと
本気になって考え、本気になって悩んだと思います。
そこの問題が、宮沢賢治の文学や芸術と、
宗教思想との関わり方を決めていく
大きな問題になったと思われます。

【A074】宮沢賢治の幼児性と大人性

【A074】宮沢賢治の幼児性と大人性

時間:87分
音質:3
ジャンル:文学
講演日時:1983年10月26日
主催:詩誌「無限」事業部
場所:明治神宮外苑絵画館文化教室
収載書誌:弓立社『吉本隆明全講演ライブ集 第8巻』(2004年)

音源について
無限アカデミー現代詩講座で
行われた講演。
音源はクリアに収録されているが
若干音が割れている個所がある。

講演より
宮沢賢治の詩は、
自然の景観や自然現象とのさまざまな交感を、
「語りの言葉」で語っていきます。
しかしその途中で、突然違う位相からの言葉が
括弧のなかに入ってきます。
そうかと思うとまた違う言葉が
二重括弧になって入ってきます。
こうした言葉を「否定性の言葉」として考えてみると、
それは童話作品のなかでは
キーワードとして出てきていることがわかります。
宮沢賢治という人の世界には、
幼児性を象徴するキーワードが一方にあり、
もう一方には得体のしれない
混濁した大人の独語としてしか存在できない
言葉があります。
そのような幼児性と、得体のしれない大人性という
両者の差異が、終始一貫宮沢賢治を葛藤せしめた
根本にあることではないかと思われるのです。

【A028】宮沢賢治の童話について

【A028】宮沢賢治の童話について

時間:62分
音質:2
ジャンル:文学
講演日時:1971年12月4日
主催:日本女子大学児童文学研究室/同人誌「海賊」
場所:日本女子大学成瀬記念講堂
収載書誌:猫々堂「吉本隆明資料集51」(2005年)

音源について
日本女子大学児童文学研究室主催
〈詩と童話まつり〉という
催しでの講演。
ところどころに音が飛ぶような
ノイズが入る。音質はよくない。

講演より
宮沢賢治の童話の世界を初期から晩期に至るまで
とても奥底のほうで規定しているのは、
山人の入眠幻覚や白日夢の世界、
あるいは民話・伝承に対する異常な関心です。
彼がイーハトーヴと呼んだ岩手県には、
さまざまな伝承や民話があります。
山のなかで白日夢に襲われ、
ハっと気がついたときには
自分がぐるぐる同じ道を回っていたとか、
とてつもないところへ行っていたという
山人の民話のなかでも、
入眠幻覚の問題が宮沢賢治の童話の奥底にある
性格を規定していると思います。
それは『銀河鉄道の夜』のような作品にも、
とてもよく象徴されています。

この講演のテキストを読む

【A073】宮沢賢治の陰──倫理の中性点

【A073】宮沢賢治の陰──倫理の中性点

時間:159分
音質:4
ジャンル:文学
講演日時:1983年10月23日
主催:吉本隆明文芸講演実行委員会
場所:盛岡市福祉総合センター
収載書誌:思潮社『白熱化した言葉』(1986年)

音源について
音源はクリアに収録されているが、
前半部には残響音がある。

講演より
宮沢賢治の作品は、
詩の作品のなかにも童話の作品のなかにも、
至るところに「陰の言葉」というものが
挟まれていることがあります。
それは小括弧やふつうの鍵括弧でくくられていたり、
二重の小括弧にくくられていることもあります。
宮沢賢治にとって最後の問題というのは、
この「陰の言葉」が
どういう運命をたどったかということがひとつあり、
もうひとつは
宮沢賢治の倫理の世界がどういうふうに展開され、
意味づけられるべきものなのだろうか、ということです。

この講演のテキストを読む

【A121】宮沢賢治の文学と宗教

【A121】宮沢賢治の文学と宗教

時間:115分
音質:4
ジャンル:文学
講演日時:1989年11月2日
主催:文京区立鷗外記念本郷図書館
場所:文京区立鷗外記念本郷図書館
収載書誌:コスモの本『愛する作家たち』(1994年)

音源について
主催者から提供を受けたもので、
クリアに収録されている。

講演より
宗教家としての宮沢賢治と、
芸術家・詩人あるいは童話作家としての宮沢賢治と
どちらを偉大だと思うかといえば、
僕は詩人・童話作家・芸術家としての宮沢賢治のほうを
偉大だと思いたいところです。
しかし宮沢賢治自身は、宗教家としての自分、
法華経の信者としての自分というものを
いちばん重要だと考えていたのではないかという
気がします。
法華経では、文学芸術を真っ向から否定しています。
「文学芸術のようなものに近づくならば
法華経の信者にはなれない」
といっています。
宮沢賢治は、思春期に法華経を
はじめて読んだときにこのことにぶつかり、
また死ぬまで文学芸術をやめられなかったわけですから、
何らかの意味でこれに対する考え方がなくてはなりません。

この講演のテキストを読む

【A093】柳田国男の周辺──共同幻想の時間と空間

【A093】柳田国男の周辺──共同幻想の時間と空間

時間:183分(うち、質疑応答37分)
音質:4
ジャンル:思想
講演日:1986年6月8日
主催:吉本隆明を読む会
場所:盛岡市上田公民館
収載書誌:洋泉社『定本 柳田国男論』(1995年)

音源について
基本的にはライン録音された
主催者の音源を採用したが、
テープ反転で欠けの生じた
部分については
客席録音のもので補完。

講演より
僕自身も柳田国男について
論じたりしてきましたけれども、
同時に柳田国男が『明治大正史』でやったように
現在のイメージをどうつくるのかということも
やってきました。
その場合、柳田国男の方法は
無意識に僕らのなかに入ってきていて、
それをもとにして自分の分析をやってきました。
柳田国男が『海上の道』などでたどった、
稲作が南島から日本の島に渡ってきたという考え方は、
実証史学でいえば危ういところがあるのかもしれません。
しかし柳田国男の方法的な優位は、
実証でくつがえしえるというものではありません。
柳田国男の地勢のイメージのつくり方、
過去のイメージのつくり方、
民衆のイメージのつくり方の根本的なところは、
共同幻想の過去・現在・未来を考えていくとき、
現在でも有効だと考えています。

【A130】柳田国男と田山花袋

【A130】柳田国男と田山花袋

時間:98分
音質:3
ジャンル:思想
講演日時:1990年9月8日
主催:柳田国男研究会/遠山常民大学/浜松磐田常民文化談話会/ふじみ柳田国男を学ぶ会/飯田歴史大学/鎌倉柳田国男研究会/遠野常民大学/鎌倉市民学舍/於波良岐常民学舍
後援:邑楽町/邑楽町教育委員会
場所:群馬県邑楽郡邑楽町・長柄公民館
収載書誌:至文堂「国文学 解釈と教材」57巻2号(1992年)

音源について
遠野常民大学をはじめとする、
全国の常民文化を研究する
機関が集まって開かれる
9常民大学合同研究会で
行なわれた講演。
音源は客席録音だがクリア。

講演より
田山花袋と柳田国男は、若い頃から
和歌や新体詩の仲間として
相互に影響しあっているのですが、
両者がそれぞれの道へ進んでしまった後も、
ふたりのあいだにはたくさんの類縁性を
たどることができます。
そこで考えますと、花袋や自然主義の文学潮流と、
柳田国男の民俗学の方法を支えたスタイルとは、
それほど分離してしまったといえない気がします。
初期の叙情時代のふたりは、
同じ文語体のスタイルの圏内にあり、
柳田はそれを延長して『遠野物語』へ、
花袋はそこから脱出して自然主義へ向かった、
という経路も考えられます。
ふたりが自分では語らなかった
無意識の影響を含めて追求することができると、
柳田国男だけでなく、
日本の自然主義文学に対する追求に
入っていくことになるのではないでしょうか。

この講演のテキストを読む

【A128】『遠野物語』の意味

【A128】『遠野物語』の意味

時間:93分
音質:3
ジャンル:思想
講演日時:1990年8月26日
主催:『遠野物語』発刊80周年記念事業実行委員会/遠野常民大学
共催:岩手県/遠野市/遠野市教育委員会
後援:岩手民俗の会/NHK盛岡放送局/岩手日報/岩手放送/テレビ岩手/エフエム岩手/朝日新聞社/毎日新聞社/読売新聞社/河北新報社/岩手東海新聞社/遠野商工会/遠野市観光協会
場所:岩手県遠野市・水光園
収載書誌:至文堂「国文学 解釈と教材」56巻3号(1991年)/新潮文庫『遠野物語』(1992年)

音源について
『遠野物語』80周年を記念して
開かれたシンポジウムでの講演。
音源は客席録音だがクリア。

講演より
植物と動物のあいだ、動物と人間のあいだには
境界線がない──「中間はいつでも連続しているんだ」と
いうことをひとりでにいっていることは、
柳田国男のとても大きな特徴だと思います。
柳田国男にとって、稲を持って来た人たち(平地人)と、
それ以前に住んでいた人たち(山人)の区分は、
はじめから終わりまで関心の的になっていました。
ここでたぶん「中間は連続する」という考え方のスタイルは
生まれてきたと推測することができます。
『遠野物語』の中核に理念を与えるとすれば、この
「中間は連続している」という論理だと思います。
この中間についての論理は、柳田国男の場合は
論理というよりも、文体の実質の力で
ひとりでにやってしまったと思います。
これは、他の古典物語と比べて比類のないほど長い
多様な時間を包括していることとともに、
『遠野物語』が問いかけてくる問題に違いありません。

この講演のテキストを読む

【A032】太宰治と森鷗外──文芸雑話

【A032】太宰治と森鷗外──文芸雑話

時間:122分
音質:3
ジャンル:文学
講演日:1975年7月18日
主催:文京区立鷗外記念本郷図書館
場所:文京区立鷗外記念本郷図書館
収載書誌:弓立社『吉本隆明全講演ライブ集 第10巻』(2005年)

音源について
予定時間を30分オーバーするほど
熱のこもった講演。
音源は主催者提供だが、
残響音が入っており、
特に冒頭約1分間は聞き取りづらい。

講演より
太宰治というのは短編の名手なのですが、
太宰治の短編小説に
非常に大きな影響を及ぼしたと考えられるものは、
作家とばかりはいえないのですがふたつあると思います。
ひとつは落語で、
近代落語の伝統は三遊亭円朝から
はじまるわけですけれども、
落語の影響は非常に大きいと思います。
落語の影響というのは、たとえば
どういうふうにあらわれてるかというと、
太宰治の短編のなかでは、
落語の落ちが非常によく使われていて、
太宰治が一生懸命まともに落語をよく読んで
話したと考えられます。
もうひとつは、鷗外の短編、
といいたいところですけれども、
鷗外の訳した短編小説があります。

【A109】シンポジウム・太宰治論

【A109】シンポジウム・太宰治論

時間:383分
音質:4
ジャンル:文学
講演日時:1988年5月14日
主催:弘前大学教育学部 近代文学研究会
後援:弘前大学生協/東奥日報社/RAB青森放送/大和書房
場所:第1部・弘前大学教養部17番教室/第2部・スペース・デネガ
収載書誌:大和書房『吉本隆明「太宰治」を語る──シンポジウム津軽・弘前’88の記録』(1988年)

音源について
第1部は吉本隆明の講演、
第2部は聴講者との討議。
音源は主催者提供で、
VHSテープから音声データを
抜き出したもの。たいへんクリア。

講演より
太宰治の作品は、物語の流れだけ読めば、
たいへん明瞭な物語を持っている完成された作品です。
ところが実験的な作品となっていきますと、
物語性としてのドラマとは別な、
人称のドラマ──目に見えない、
筋の起こらないドラマというのもたくさんあって、
太宰治の作品はこのふたつのドラマから
成り立っているように思います。
そこのところがつかまえどころじゃないかと思われます。
このことはどこで資質として形成されたのかを考えますと、
太宰治の乳幼児から青春の入り口のところまでにある体験が
大きな役割を演じているだろうと僕は推察します。

この講演のテキストを読む

【A077】隠遁者としての良寛

【A077】隠遁者としての良寛

時間:236分
音質:3
ジャンル:宗教
講演日時:1984年4月1日
主催:雑誌「修羅」同人
場所:新潟県三島郡出雲崎町・光照寺
収載書誌:春秋社『良寛』(2004年)

音源について
良寛が剃髪を行った寺院である
新潟県の光照寺で行われた講演。
音源は主催者提供。
周辺ノイズが入るがクリア。
質疑応答はオフマイク。
テープチェンジで欠けた部分を
別のテープで埋め合わせているため
音質が変わる個所がある。

講演より
〈隠遁者としての良寛〉ということは、
僕がいちばんむずかしいと思って
残してきたイメージです。
〈隠遁〉ということは、良寛という名前に
最初につきまとうイメージだと思うけれども、
僕にとっては逆なんです。
詩でいいますと山川草木、花鳥風月に託して
自分の内面性を述べた詩、
そういう詩に託された良寛というのが
〈隠遁者としての良寛〉ということです。
その内面性に入り込む糸口を
どこに持っていったらいいのかということを、
考えてはやめ、考えてはやめてきました。
この、いちばんむずかしい良寛の詩というものを
つかまえるには、「自然」というのが
隠遁者としての良寛の大きな枠組みを決めている、
と考えればいちばんいいのではないかと思います。

この講演のテキストを読む

【A079】漱石のなかの良寛

【A079】漱石のなかの良寛

時間:115分
音質:3
ジャンル:文学
講演日時:1984年9月13日
主催:本郷青色申告会/本郷青色大学
場所:本郷青色申告会館
収載書誌:弓立社『超西欧的まで』(1987年)

音源について
原題は「座と文学」。
音源は主催者から提供。
クリアに収録されている。

講演より
明治以降の文学者のなかで、
漱石のように〈坐る〉ということ、〈禅〉ということ、
もっと広くいえば仏教の修練ということに関心を持った
文学者は少ないように思います。
ましてそれを作品に結晶させた文学者は稀で、
漱石はたいへんめずらしい作家といえるでしょう。
漱石は、修善寺で胃病にかかり
吐血して生死の境をさまよって以降、
「則天去私」という境地に入ったとされます。
この境地は、禅宗の坊さんがいう
悟りの境地ではありません。
でも禅家がいう悟りの境地が、
本当の意味があるかどうかは
いろいろ疑問のあるところです。
漱石のように、悟りの境地に関心がありながら
その「門」のなかには入れなかった、
かといってその「門」を立ち去ることもできなかった──
そんな心のあり方が本当の〈悟り〉に
近かったのかもしれないのです。
そこが漱石がたどりついた〈坐〉の境地を
あらわしています。

この講演のテキストを読む

【A116】良寛について

【A116】良寛について

時間:92分
音質:2
ジャンル:宗教
講演日時:1988年11月19日
主催:埼玉県日高町武蔵台自治会
収載書誌:未発表

音源について
客席から録音されているため
録音者の手元でのノイズがある。
また、テープが欠けているため、
講演の途中までしか収録されていない。

講演より
良寛というと「托鉢を忘れて一日中子どもと遊んでいた」
というイメージを誰でも持っているのではないでしょうか。
だから良寛を子どものように邪気もない人だったと
理解するのは、僕の理解のしかたでは
少し間違いであるような気がします。
たとえばみなさんが、何か用事があって出かけて、
その用事を忘れて映画を見てしまった、
子どもと遊んでしまったとすると、
そういうふうに心が動くということは、
なかなか一筋縄ではないことだと思われるからです。
「いろいろなことを忘れて子どもと遊んで
その日が終わってしまった」
という良寛の遊び方は、楽しくて遊ぶということが
ひとつ確実にあるわけですけれども、
もう少し考えると「子どもと遊ぶということと、
托鉢をして食べ物をもらうということが、
良寛にとっては同じだけの重さであった」
ということがいえそうな気がします。

この講演のテキストを読む

【A061】僧としての良寛

【A061】僧としての良寛

時間:220分
音質:3
ジャンル:宗教
講演日時:1981年10月25日
主催:雑誌「修羅」同人
場所:長岡市中央公民館
収載書誌:春秋社『良寛』(2004年)

音源について
雑誌「修羅」同人による連続講座
「良寛」の第2回目。
音源は主催者提供。
周辺のノイズが入っているが
比較的クリアに収録されている。
質疑応答はオフマイクで録音。

講演より
「僧侶とは何か」を考えていく場合、
いちばん根本的なことがあります。僧侶というのは、
「頭を丸めて何した」ということではありません。
仏教の思想も含めて、東洋における思想が生み出された
当初の社会の状態に返したところで
「僧侶とは何か」を考えなくてはいけないのです。
数千年前に生み出されたアジア的な社会では、
農業が根本でした。
農業を営む村落共同体に対して、
僧侶が自分をどういうふうに位置づけているか
ということが、非常に重要なことです。
そこで良寛がどういうふうに
僧侶として振る舞っているか、
あるいは良寛の思想が僧侶というものを
どう位置づけているかということが、根本的な問題です。
良寛の表現したもの、振る舞いを
そういうところから考えてみますと、
それはいかようにも考えることができます。

この講演のテキストを読む

【A045】良寛詩の思想

【A045】良寛詩の思想

時間:137分
音質:4
ジャンル:宗教
講演日:1978年9月16日
主催:雑誌「修羅」同人
場所:長岡市中越婦人会館
収載書誌:春秋社『良寛』(2004年)

音源について
連続講座「良寛」の第1回目。
50人ほどの聴衆が集まった。
音源は主催者提供。
講演自体は聞き取りやすい。
テープ交換のため音質が変わる。

講演より
良寛にはとてもむずかしいところがあります。
この人は童心を持っていたから、子どもと一日中
毬ついて遊んでいて、
つい本来の用事を忘れて平気だったといえば、簡単です。
しかし、そう考えるべきものじゃないかもしれないのです。
われわれが、一日中子どもと毬ついて遊んでいたとか、
何か用事があるんだけど、
そんな用事のことなどはもう忘れて、
途中で子どもと会ったら遊んでしまったと
考えてみたらわかります。
それはちょっとね、「おれうかうかしちゃったよ」では
済まされない何かであります。
行為自体が何かを意味しています。
良寛は童心を持っていたからだと理解したら、
何も理解していないと同じことです。

【A161】倫理と自然のなかの透谷

【A161】倫理と自然のなかの透谷

時間:79分
音質:4
ジャンル:文学
講演日時:1994年6月4日
主催:北村透谷研究会
場所:上智大学9階図書館
収載書誌:未発表

音源について
透谷の没後100年を記念した
全国大会での講演。
講演者には吉本隆明のほか、
桶谷秀昭氏や山田有策氏らがいた。
冒頭の挨拶は佐藤泰正氏。
音源はクリアに収録されている。

講演より
透谷の思想といえるものは、
恋愛、男女の関係ということに尽きると思います。
『厭世詩家と女性』に表現された思想は、
透谷の本格的な、独特な思想だということが
できると思います。
「文学も恋愛だったし、倫理も恋愛だし、
生きるか死ぬかということもやっぱり恋愛なのだ。
恋愛というのはそういう意味でいちばん重要なのだ」
ということを透谷ほど強調し、
理念化して立派につくりあげた人はいません。
あらゆる枝葉とかほかの人の影響とかを
ぜんぶ取っ払ってしまって、
透谷の文学理念、あるいはイデオロギーとしての理念を
最後に持ってくるとすれば、
恋愛ということに
最上の価値と重さをおいたというところに、
透谷の本領があると思われます。
そこが透谷らしい思想の本筋だと思います。

この講演のテキストを読む

【A107】恋愛について

【A107】恋愛について

時間:95分
音質:3
ジャンル:思想
講演日時:1988年3月4日
主催:日仏学院 後援:フランス大使館
場所:東京日仏学院ホール
収載書誌:弓立社『人生とは何か』(2004年)

音源について
ベルク哲子氏の個展に際して、
安原顕氏をコーディネーターに
開かれた講演会。
音源は客席から録音されたが
周辺のノイズが入っているほかは
比較的クリアに収録されている。

講演より
恋愛には、3つの段階と3つの種類があると思います。
ひとつは正常な恋愛です。
1対1で、ひとりの男性とひとりの女性が出会って、
両者のあいだに恋愛感情が起こる。
そういう恋愛を正常な恋愛としますと、
それがいちばん根底的な
恋愛といえるんじゃないかと思います。
その次の段階にくる恋愛は、三角関係の恋愛です。
恋愛というのは対幻想であって、1対1のあいだにしか
起こりえないのですけど、
三角関係というのは3者のあいだに起こるので、
これは矛盾なわけです。
つまり、恋愛における矛盾、あるいは
矛盾としての恋愛です。
3人というのは、共同性のいちばん原型にある関係で、
恋愛感情とか男女の恋愛という対幻想とは、
本来ならば違うはずなんです。
これに対して、さらに段階が進んだ恋愛を
想定するとすれば、直接の接触や関係を
いつも回避されている恋愛というものが
それに当たると思います。
それは、もう少し進んだ高次な段階の恋愛として
存在するんじゃないかというのが、
僕のお話ししてみたいことです。

【A179】中原中也・立原道造──自然と恋愛

【A179】中原中也・立原道造──自然と恋愛

時間:210分
音質:5
ジャンル:文学
講演日:1996年7月24日
主催:日本近代文学館 後援・読売新聞社
場所:有楽町・よみうりホール
収載書誌:弓立社『吉本隆明全講演ライブ集 第16巻』(2007年)

音源について
「近代文学館・夏の文学教室」
での講演。参加はこれで7年目。
この年の総題は
「日本文学の100年
──恋愛をめぐって」。
音源は主催者提供。
非常にクオリティーの高い音質。

講演より
僕らが中原中也と立原道造、
両者を古典として保存するのはなぜかというと、
決して大詩人であるとか、
大ロマンを持っている人だというのではありません。
そういう意味ではマイナーな人ですが、
しかし、天才としてのどん詰まりを持っています。
天才としての道を、行き詰まったところまで、
とことん行ったということは、
詩の作品のなかにちゃんとあります。
自分はできなくても、
しかしこういう人がいるということは、
われわれの希望をどんなに助けるかしれないことなのです。
天才ということを、少なくとも僕らが文学、
芸術において保存して、
なかなか滅ぼさないのは、そのことなのです。

【A180】作品に見る女性像の変遷

【A180】作品に見る女性像の変遷

時間:204分
音質:5
ジャンル:文学
講演日時:1997年7月21日
主催:日本近代文学館 後援:読売新聞社
場所:有楽町・よみうりホール
収載書誌:未発表

音源について
日本近代文学館主催
「夏の文学教室」での
8回目となる講演。
この年の総題は
「近代文学のなかの女性」。
音源は主催者提供。
たいへんクリアに収録されている。

講演より
鷗外や漱石ほどの、西欧近代もよく知っていて、
抜群の知識・教養を持っている男性が、
どういう女性を理想とするのかというと、
鷗外をとっても、漱石をとっても、
近代的な女性ではないのです。
教養ある女性でもないのです。
なんと古めかしく、男性に対して献身的で、控えめで、
根性がよくてという女性が
やっぱりいいということになってしまうわけです。
いずれもしかたないというか、
理想の社会像と、理想の女性像と、
理想の人間像は本来的にいえば
それぞれみんな違うわけです。矛盾することは当然です。
それがふつうですが、
そこを一致させるという考え方でいけば、
鷗外、漱石といえども、少しも一致していない。
理想の社会像と理想の男女像も一致していないし、
理想の男女像と理想の個人像も一致しないのです。
僕の考えかたを極端にいえば、
一致していないのが本当であって当然なのだ、
といういい方ももちろんできるわけです。

この講演のテキストを読む

【A095】日本人の死生観

【A095】日本人の死生観

時間:99分(うち質疑応答12分)
音質:3
ジャンル:思想
講演日時:1986年11月16日
主催:日本看護境会 北海道支部北空知地区支部
場所:滝川市総合福祉センター
収載書誌:未発表

音源について
音源は主催者から
提供を受けたもので、
クリアに収録されている。

講演より
昔のご老人たちは、年老いて姥捨て山に捨てられるという
伝承もあるくらいだし、ぜんぶ他動的です。
歳をとると、自覚的でなく否応なしに
子どもの世話になっていってしまうということが
代々のしきたりで、
そこで悲劇が起こったりしてきたわけです。
現在、「子どもたちには世話になるまい」と思う人たちが
出てきたということは、
日本人が死の問題をちゃんと解決する基盤を
獲得してきたということを意味していると僕は考えます。
大昔からある懐かしい、古く美しいものが
消えていくことは残念ですが、
残念だというばかりではなくて、
一方では「死は自分の問題である」という
たくましい考え方の人たちがどんどん増えていることは、
希望なのだということができると思います。

この講演のテキストを読む

【A055】「生きること」について

【A055】「生きること」について

時間:80分
音質:2
ジャンル:思想
講演日:1980年6月21日
主催:近代文学研究会(雑誌「城」の研究会) 後援・角川書店,佐賀新聞社,佐賀県立図書館
場所:佐賀市民会館
収載書誌:春秋社『新・死の位相学』(1997年)、中公文庫『語りの海3 新版・言葉という思想』(1995年)

音源について
「近代文学研究会」例会
二百回記念講演会として行われた。
ノイズが多く、ホールの残響音もあって
聞き取りづらい。

講演より
「生きていくこと」は、
一般に片道切符だと考えられています。
つまり、15歳の者が5歳になることはできないし、
60歳の者が40歳に戻ることはできないと理解しています。
この理解に対して、もし60歳の人が40歳のことを、
あるいは15歳のことをよく知りたくて
振り返りたい場合には、ふたつの方法があります。
記憶の思い出に頼るというのがひとつ、
それからもうひとつは、
人類の歴史的な遺産としてある記述、
つまり文学や芸術の助けを借りて、
60歳の人間が20歳の人間を理解するとか、あるいは、
20歳の自分というものを
内在的に理解する助けとする方法です。
しかし、もうひとつの方法が考えられるとすれば、
それは「死」というものから逆に
「生」の姿を照らし出し、そして透視することです。

【A096】続・日本人の死生観

【A096】続・日本人の死生観

時間:56分
音質:4
ジャンル:思想
講演日時:1986年11月17日
主催:北海道滝川市 月曜談話会
場所:滝川市・ホテル三浦華園
収載書誌:未発表

音源について
北海道で行なわれた
連続講演の2日目。
非常に少人数で行われた講演。
音源は主催者提供。

講演より
「人間は必ず死ぬ」といういい方と、
「私は必ず死ぬ」といういい方とは、
同じように見えて違います。
「人間は死ぬ」ということは
大雑把にはいえそうに思えるけれども、
「私は死ぬ」ということは私にはよくわからないはずです。
そういうことに関連して僕はいま、
「死に瀕したときからはじまる文学」をやっています。
死に瀕した人が快復して治ったという
体験を集めてみたのです。
死に瀕して生き返った人の体験談には、
「お医者さんが人工呼吸をしてみたり、
看護婦さんが慌ただしく出入りしたり、
近親の人が悲しそうに叫んでいるとかいうのが
部屋の2メートルぐらいの高さのところから見えた」
ということがほとんど例外なしにあります。
それはいったい何なのだろうか、
という問題があるわけです。

この講演のテキストを読む

【A166】生命について

【A166】生命について

時間:117分
音質:3
ジャンル:思想
講演日:1994年12月4日
主催:リブロ 池袋本店
場所:西武百貨店 池袋本店
収載書誌:弓立社『吉本隆明全講演ライブ集 第7巻』(2004年)

音源について
雑誌「試行」が書店リブロで
取り扱われることになり、
書店の企画として行われた。
この講演はその連続講演の4回目
音源は主催者提供だが、
客席から録音。周囲ノイズが多い。

講演より
ここ数年のあいだに起こってきている
宗教とか理念とか科学というところからくる生命論は、
いままであった生命論とは違う場所なんです。
超能力とか、死後の世界とか、生前の世界という問題は、
それを考えたら気分が
せいせいするということはないんですが、
たいへん興味深い場所なのです。
僕が唯一こうしたらいいんじゃないかなと思うことは、
科学的であれ、宗教的であれ、早急に決めないで、
まだ残っている問題があるんだと考えて、
それをなんとかして解決しようと考えるのが
妥当じゃないかということです。
その考え方に差し向かうということは、
いいかえれば生命論以外の、倫理の問題や、
社会的な問題、政治的な問題に
差し向かうということとも
広がりを関連させることができるのです。

【A131】死を哲学する

【A131】死を哲学する

時間:80分
音質:2
ジャンル:思想
講演日時:1986年9月11日
主催:本郷青色申告会
場所:本郷青色申告会館
収載書誌:弓立社『人生とは何か』(2004年)

音源について
主催者提供だが、
客席から録音されているため
周辺のノイズが入っており、
音質はあまりよくない。

講演より
「人間は必ず死ぬ」といういい方と
「私は必ず死ぬ」といういい方のなかには
ぜんぜん違うところがあります。
その違うところが誰にとっても
あいまいになっているわけで、
もちろん宗教にとってもあいまいになっている。
そのあいまいになっている部分に、
「死とは何か」という問題の精神が関わる部分が
該当するだろうといえます。
物質的あるいは生活的な意味で死の問題が解けたとしても
なおかつ精神的な意味での死の問題は
解けないということが残るとすれば、
「人間は必ず死ぬ」といういい方と
「私は必ず死ぬ」といういい方のあいだにある隙間から、
「死とは何か」という問題がいつでもむくむくと
頭をもたげてくるといえるのではないでしょうか。

【A060】〈アジア的〉ということ──そして日本

【A060】〈アジア的〉ということ──そして日本

時間:135分
音質:5
ジャンル:思想
講演日時:1981年7月4日
主催:北九州市小倉・金榮堂
場所:北九州市小倉・NRCCホール
収載書誌:弓立社『document吉本隆明』1号(2001年)

音源について
北九州市小倉の書店・
金榮堂で行われた講演。
音源は主催者から提供。
たいへんクリアに収録。

講演より
現在、なぜ〈アジア的〉ということが
ことさら問題でありうるのでしょうか。
現在の世界を把握していく場合、
何がかつての時代と違うかを考えてみると、
ふたつのことがあると思います。
ひとつは、欧米の高度な資本主義社会の文明が、
どこへどう行きつつあるのか、
はっきりとつかまなくては、ということがあります。
もうひとつは、かつては〈西欧的〉ということが
世界を考えたと同じだといえたのですが、
現在、世界が高度になってきますと、
世界の最先端をきっている
高度な資本主義社会の文明だけを考えれば
世界を考えたというふうにいかなくなりました。
世界という水平線上に、アジアも、アフリカも、
それから未開あるいは原始にある地域の問題も
並んできたのです。
世界史的な意味で〈アジア的なもの〉を把握することが、
はじめて世界水平線上にあらわれてきた大きな問題です。

【A170】ヘーゲルについて

【A170】ヘーゲルについて

時間:146分
音質:3
ジャンル:思想
講演日:1995年4月9日
主催:リブロ 池袋本店
場所:西武百貨店 池袋本店
収載書誌:弓立社『吉本隆明全講演ライブ集 第7巻』(2004年)

音源について
雑誌「試行」が書店リブロで
取り扱われることになり、
書店の企画行った講演。
この講演は、その5回目。
周辺ノイズが入っている。
終盤で録音場所が変わったのか、
音質が変わる部分がある。

講演より
法を哲学にまで突きつめたヘーゲル、マルクス流の考えと、
われわれの理解とのギャップを埋めるためには、
「法的な言語というものを、
実証的な言葉じゃなく本質的な言葉として理解することは、
いざとなったらいつだってやれるぜ」
というところまで突きつめておけば、
調節はつくだろうなというのが
僕の考えているところです。
日本が西欧的になればいいという人たちもいますが、
僕はそれに賛同しないのです。
そんなところはちっとも問題になりません。
西欧近代の法理解と道徳倫理の区別がつかない
われわれの伝統と実感を
「どういうふうにつき合わせれば解決したことになるのか」
が、とても重要だと思います。

【A104】都市論II──日本人はどこから来たか

【A104】都市論II──日本人はどこから来たか

時間:76分
音質:5
ジャンル:情況
講演日:1987年9月13日
主催:中上健次/三上治/吉本隆明
場所:品川・寺田倉庫 T33号館4F
収載書誌:弓立社『いま、吉本隆明25時』(1988年)

音源について
中上健次・三上治・吉本隆明
3氏主催による
オールナイトで行われた
「いま、吉本隆明25時」の講演。
この講演朝9時過ぎにはじまった。
吉本隆明はこの日3度目の講演。
音源はライン録音されたもの。

講演より
柳田国男のような、歩く民俗学者というか、
日本のぜんぶとはいわないまでも、
半分か3分の2ぐらいはとにかく自分の足で歩いて、
そのあげくに考えられた
「日本人はどこから来たか」みたいなこととは、
もちろん違います。
4畳半というか6畳というか、
そういうところでごろごろしながら考えた、
つまり歩いたことはあんまりない、
そういう人間の描く「日本人はどこから来たか」を
一度やってみたいのです。

【A016】宗教としての天皇制

【A016】宗教としての天皇制

時間:72分
音質:3
ジャンル:宗教
講演日:1970年5月16日
主催:学習院大学土曜講座
場所:学習院大学 教室
収載書誌:中公文庫『語りの海1 幻想としての国家』(1995年)、春秋社『〈信〉の構造 PART2』(2004年)

音源について
学習院大学の教室で行われた講演。
主催者側が用意した演題は
「国家の幻想と叛逆の論理」。
「宗教としての天皇制」は
吉本隆明が設定したテーマ。
別の話し声が聞こえるところがあり、
残響音が目立つ部分もある。
途中で音声が遠くなるのは
吉本隆明が黒板を使用したため。

講演より
歴史を考えてみても、天皇がじかに政治権力を掌握し
かつ行政的にも手腕を発揮したというような事例は、
おそらく数えるほどしかないので、
大部分は間接的に、一種の宗教性として、あるいは
宗教的な司祭といいましょうか神主といいましょうか、
そういうような集団として存在してきたのです。
しかし依然としてそこにあるタブーは、
基本的なもの、本質的なものであるために、
そのタブーに手をつけない限り、
直接に政治権力を掌握していなくても、
あるいは単なる神主に過ぎなくても、
天皇制は存続してきたと思われます。
これは裁判沙汰の問題でもなければ、
「首がころり」というような問題でもないと思います。
天皇制にまつわるタブーが現在でも存在するわけです。

【A100】わが歴史論──柳田国男と日本人をめぐって

【A100】わが歴史論──柳田国男と日本人をめぐって

時間:79分
音質:2
ジャンル:思想
講演日時:1987年7月5日
主催:我孫子市教育委員会
場所:我孫子市民会館
収載書誌:JICC出版局『柳田国男論集成』(1990年)

音源について
講演後半の録音が欠落している。
収録は講演の前半のみ。
手元のノイズが入ったり
声が遠くなる個所がある。

講演より
柳田国男の民俗学は、稲を持ってきた人以前に
日本列島に住んで、山のなかで狩猟をしたり、
木こりをしたり、製鉄に携わったりしていた、
農業民以外の人たちに対する関心からはじまっています。
柳田国男の民俗学を突きつめていきますと、
一見まるで孤立した民族のように見える
アイヌの人たちが、祖先は縄文の人たちとして
一緒に含まれてくるわけです。
柳田国男は、アイヌの人たちの祖先が
日本の縄文時代の人たちの直系に近い残りだとは
あからさまにいっていませんが、
そう考えていたということはとてもよく理解できます。
僕らが柳田国男のいうところを推測して
普遍化していくと、
どうしてもそういうところに突き当たるような気がします。

【A183】芸術言語論──沈黙から芸術まで

【A183】芸術言語論──沈黙から芸術まで

時間:186分
音質:5
ジャンル:思想
講演日時:2008年7月19日
主催:ほぼ日刊イトイ新聞
場所:昭和女子大学人見記念講堂
収載書誌:未発表

音源について
ほぼ日刊イトイ新聞
10周年記念として
開かれた講演会での講演。
ライン録音でクリアに収録。

講演より
僕が芸術言語論ということで第一に考えたことは、
言語の本当の幹と根になるものは、
沈黙なんだということです。
コミュニケーションとしての言語は、
植物にたとえますと
樹木の枝のところに花が咲いたり実をつけたり、
葉をつけたりして、季節ごとに変わったり、
落っこちてしまったりするもので、
言語の本当に重要なところではないというのが、
僕の芸術言語論の大きな主張です。
沈黙に近い言語、
自分が自分に対して問いかけたりする言葉を、
僕は「自己表出」といっています。
そして、コミュニケーション用に、
もっぱら花を咲かせ、葉っぱを風に吹かせる、
そういう部分を「指示表出」と名づけました。
言語は、そのふたつに分けることができますよ、
ということが、芸術言語論の特色として
強調しておきたいことです。

この講演のテキストを読む

【A157】太宰治

【A157】太宰治

時間:197分
音質:5
ジャンル:文学
講演日:1993年7月28日
主催:日本近代文学館 後援・読売新聞社
場所:有楽町・よみうりホール
収載書誌:コスモの本『愛する作家たち』(1994年)

音源について
恒例となった
「近代文学館・夏の文学教室」
での講演。
音源は主催者提供。

講演より
太宰治という人は、僕がお会いしたときには、
まことに見事に、常識でいう社会的な善と悪が、
ちゃんとひっくり返っている人になっていました。
一般的に人がいいことだと思っていることは
ぜんぶ悪いことで、
悪いことだと思っていることは
ぜんぶいいことだというふうに、
揺るぎない自信で完全にひっくり返っていました。
学生時代でしたが、ああ、
すごい人がいるんだなと思ったのを覚えています。

【A141】宮沢賢治

【A141】宮沢賢治

時間:188分
音質:5
ジャンル:文学
講演日:1992年7月29日
主催:日本近代文学館 後援・読売新聞社
場所:有楽町・よみうりホール
収載書誌:コスモの本『愛する作家たち』(1994年)

音源について
3年連続となった
「近代文学館・夏の文学教室」
での講演。
通常1日3人の講師が1時間ずつ
受け持つが吉本隆明と江藤淳氏は
ひとりで3時間行った。
音源は主催者提供。

講演より
宮沢賢治の詩を考えると、いつでも岐路に立たされます。
何を詩と考えるかについて、
ヨーロッパも含めて近代詩以降の考え方を持ってきますと、
宮沢賢治の世界はまるで違うとか、
まるで無駄なことをしていることになるのかもしれません。
しかし、そうじゃなくて、
仏教的な世界観をもとにして、
現象と現象とが溶け合った世界を
どうやってスケッチするかが詩なんだという観点に立てば、
これほどの天才的な世界を突きつめていった詩人は
いないんだということになっていきます。

【A150】不安な漱石──『門』『彼岸過迄』『行人』

【A150】不安な漱石──『門』『彼岸過迄』『行人』

時間:197分
音質:5
ジャンル:文学
講演日:1993年2月7日
主催:紀伊國屋書店 協賛・筑摩書房
場所:新宿・紀伊國屋ホール
収載書誌:筑摩書房『夏目漱石を読む』(2002年)

音源について
夏目漱石講演の
最終章ともいえる講演。
講演記録は後に筑摩書房の
『夏目漱石を読む』
(2002年11月刊)に収録され、
第二回小林秀雄賞を受賞した。
音源は主催者提供。

講演より
『門』の後にくる『彼岸過迄』『行人』という作品は、
作品としては破綻のほうが多いといっていいのです。
漱石が持っている資質、それから実生活上、
作品上の関心に、なんとかして
解決や自分なりの納得を与えたいという
モチーフの強烈さが、漱石をその後まで
どんどん引っ張っていったということになると思います。
明治以降の文学者で、射程の長い、息の長い偉大な作家は
何人もいますが、漱石は少なくとも
作品のなかでは決して休まなかった、
いいか悪いかは別にして遊ばなかった。
漱石は自分の資質をもとにした自分の考えを展開しながら、
最後まで弛むことのない作品を書いたという点では、
息が長いだけではなくて、たぶん、
もっとも偉大だといえる作家だと思います。

【A143】青春としての漱石──『坊っちゃん』『虞美人草』『三四郎』

【A143】青春としての漱石──『坊っちゃん』『虞美人草』『三四郎』

時間:179分
音質:5
ジャンル:文学
講演日:1992年10月11日
主催:紀伊國屋書店 協賛・筑摩書房
場所:新宿・紀伊國屋ホール
収載書誌:筑摩書房『夏目漱石を読む』(2002年)

音源について
第59回紀伊國屋セミナーとして
行われた。
音源は主催者提供。
この講演を収録した
『夏目漱石を読む』は
第二回小林秀雄賞を受賞。

講演より
文学は架空のもので、言葉であって、
いくらやってもつくりもので、
実際に恋愛真っ最中の人を
恋愛小説でいくら釣ろうとしてもそれは無理で、
絶対にかなわないのです。
しかし、男女が恋愛の真っ盛りで、
両方とも無我夢中になって、
いま別れても次の瞬間には
もう会いたくてしょうがないぐらいになっている。
そういう心躍りを文字のなかに、
言葉の表現のなかに持っているとしたら、
それは文学の初源性です。
『虞美人草』のある場面が持っているこの感じ、
もとをただせば文学はこういうものだったんだ、
どんなに表現のしかたが発達しても、
もとをただせばこれだったんだということは、
漱石の作品のなかでも『虞美人草』だけが
感じさせるものです。

【A134】資質をめぐる漱石──『こころ』『道草』『明暗』

【A134】資質をめぐる漱石──『こころ』『道草』『明暗』

時間:180分
音質:5
ジャンル:文学
講演日:1991年7月30日
主催:日本近代文学館 後援・読売新聞社
場所:有楽町・よみうりホール
収載書誌:筑摩書房『夏目漱石を読む』(2002年)

音源について
「近代文学館・夏の文学教室」
として行われた講演。
本来講師の持ち時間は1時間だが、
1990年以来、
ひとりで1日分の講演を行う。
吉本隆明の回は満席。
音源は主催者提供。ライン録音。
この講演を収載した書籍
『夏目漱石を読む』は
第二回小林秀雄賞を受賞。

講演より
『こころ』という作品が、
いまでもたくさん読まれているのは、
先生の遺書のクライマックスで、
ひとりの女性をめぐる親友同士の
ふたりのあいだの葛藤のしかたと結末のつけかたが
たいへんな迫真力を持っている、
その真実らしさに理由があるのじゃないかと思うのです。
これは、作家漱石の資質の悲劇が絡み合った生涯の
いちばん重要なテーマだったといえそうです。
漱石がこのテーマに固執した根本の理由は、
資質としての悲劇にあると思われます。
文学が、この資質の問題に何かいえるとしたら、それは
「生い立ちの物語」として出てきた場合です。
そして、『こころ』の次に書かれた
『道草』という作品で、漱石は
乳幼児体験としての自分の資質形成のあり方というのを、
生涯で初めて詳細にえぐりだしていくのです。

【A127】渦巻ける漱石──『吾輩は猫である』『夢十夜』『それから』

【A127】渦巻ける漱石──『吾輩は猫である』『夢十夜』『それから』

時間:207分
音質:5
ジャンル:文学
講演日:1990年7月31日
主催:日本近代文学館 後援・読売新聞社
場所:有楽町・よみうりホール
収載書誌:筑摩書房『夏目漱石を読む』(2002年)

音源について
「近代文学館・夏の文学教室」
6日間の講座として行われた。
通常は1日で3人が入れ替わるが
「この日は吉本さんひとりに任せよう」
という小田切進理事長の判断で、
異例の1日ひとりの講演になった。
音源はライン録音。
この講演を収載した書籍
『夏目漱石を読む』は
第二回小林秀雄賞を受賞。

講演より
漱石はどう生きようとしたかということと、
どう生きざるをえなかったかということと、
その両方から「宿命」と「反宿命」が
せめぎ合うわけですが、漱石が選んだのは
「宿命」から逃れ、自然な道筋から遠ざかろうという道を、
どんどんたどっていくことでありました。
これほど典型的に、宿命が自分を吸い寄せていく
力の大きさと強さをとてもよく心得ていて、
なおかつそれに逆らうということが
生きていくことだというところで、
力瘤をたくわえて、力瘤を発揮していってという
かたちをとりながら倒れちゃうというような、
そういう生き方をせざるをえなかったというのも、
たぶんこの宿命の大きさと、
宿命に逆らうことの重要さということを、
作家としてのはじまりの時期にどんどん純化して、
そこの問題をはっきりと打ち出して、
自分の作家としての軌道を定めるということに
なりえたからだ、というふうに思われます。

【A160】現代を読む PART2

【A160】現代を読む PART2

時間:99分
音質:3
ジャンル:情況
講演日時:1993年12月20日
主催:前橋市・煥乎堂
収載書誌:未発表

音源について
前橋市の書店、煥乎堂により
「煥乎堂文芸講座」
として開かれた講演会。
音源は客席録音だが比較的クリア。

講演より
いまの不況だったら、生活水準は落とさなくていいんです。
まずいおかずにするとか、
おやじさんやおふくろさんが電気をパチパチ消して、
「おまえ電気無駄にしているよ」とかうるさくやると、
心が冷えちゃうんです。
その効果のほうがもっと悪いですから、
そこは減らす必要はないんです。
旅行を2回行くところを1回にするというような、
選んで使えるところを減らしていれば、
生活水準は落とさなくていいわけです。
どんな企業よりも、個人の方が強いんです。
どんなに企業が潰れても、
みなさんのほうは潰れないんです。
それは本当に重要なことで、
資本主義が新たな段階に入った、
ということのいちばん大きな様相はそこにあるんです。

【A120】高次産業社会の構図

【A120】高次産業社会の構図

時間:102分
音質:3
ジャンル:情況
講演日:1989年10月5日
主催:石川文化事業財団 主婦の友社
場所:お茶の水スクエア・ヴォーリズホール
収載書誌:弓立社『吉本隆明全講演ライブ集 第12巻』(2006年)

音源について
ヴォーリズフォーラム’89
「1990年代のパラダイム
成熟社会のターニングポイント」
における講演。
ステージ近くで録音されたため
内容は聞き取りやすい。

講演より
サービス業が、これ以上いくら競争しても
サービスして安くしても、
ここが経営が成り立つ限度だよというところまで
あらゆる分野で発達してしまったら、そこは頭が打たれる。
そしたらどこへいくんだ。
それは第四次産業、モノから精神へ、
目に見えるものから目に見えないものの産業へ
移る以外に方法はないわけです。

【A108】日本経済を考える

【A108】日本経済を考える

時間:123分
音質:4
ジャンル:情況
講演日:1988年3月12日
主催:墨田区立寺島図書館
場所:寺島図書館3階読書室
収載書誌:弓立社『吉本隆明全講演ライブ集 第12巻』(2006年)

音源について
主催者が18年以上
保存していた音源を提供。
講演冒頭が欠けているが、
非常にクリアに録音。

講演より
露骨にいってしまえば、経済学は支配の学です。
そうじゃなければ指導者の学です。
反体制的な指導者にも、大づかみにすると、
経済学は非常に役に立つわけです。
みなさんのなかにはこれから指導者になるとか、
支配者になるという人もおられるかもしれませんし、
また、そういう可能性もあるかもしれません。
けれどもいまのところ大多数の人は、
何でもない人だと思います。
僕も支配者になる気もなければ、
指導者になる気もまったくないわけです。
ですから、僕がやるとすれば、
もちろん素人だということもありますけど、
一般大衆の立場からどういうふうに見たらいいか
ということが根底にあると思います。
僕の理解のしかたでは、それはたいへん重要なことです。

【A086】資本主義はどこまでいったか──経済現象から見た現在

【A086】資本主義はどこまでいったか──経済現象から見た現在

時間:166分
音質:3
ジャンル:情況
講演日時:1985年9月8日
主催:北九州市小倉・金榮堂
場所:北九州市立商工貿易会館2階ホール
収載書誌:弓立社『超西欧的まで』(1987年)

音源について
北九州市小倉の書店・金榮堂で
行われた講演。
原題は「経済現象としての現代」。
音源は主催者提供。
クリアに収録されている。

講演より
現在の日本の資本主義に先進的な資本主義を
象徴させるとすれば、
たいへんな構造変化を体験しつつあることは
確からしく思われます。
マルクスがいったように、水車や風車が封建時代を象徴し、
蒸気機関が資本主義時代を象徴するものだとすれば、
電子情報産業時代は、実体は
未知な超資本主義を象徴しつつあるということは
確かだと思います。
そういうところに日本も含めて
先進的な資本主義がだんだん入りつつあると
いえそうな気がします。
その具体的なあり方が、経済現象としては
いまの情報化産業あるいは
技術革新というようなものを中心とした
産業構造の変化の仕方に帰着するだろうと思われます。

【A080】経済の記述と立場──スミス・リカード・マルクス

【A080】経済の記述と立場──スミス・リカード・マルクス

時間:85分
音質:2
ジャンル:情況
講演日:1984年11月2日
主催:日本大学三崎祭実行委員会
場所:日本大学経済学部7F大講堂
収載書誌:弓立社『超西欧的まで』(1987年)

音源について
「日本大学に来るのは2度目で、
1度目はバリケードのあいだを
学生さんに案内された」
という挨拶からはじまる。
広い講堂の講演を客席から録音。
ノイズも入り、音質はよくない。

講演より
現在の経済学的な範疇、あるいは概念は、
たぶん〈物語〉も〈ドラマ〉も
なくなっているんじゃないかと思われます。
そこではさまざまな考え方がありうるわけですが、
かつてスミスが自然の〈歌〉から緻密に経済学的な範疇、
あるいは概念をつくりあげていったというような
過程を見ることができません。
そういう過程にある、強固さとか、
道具を積み重ねる厳密さとかは
まずまず見ることができないのです。
いまはどうなっているのか、いまをどうするのかとか、
いまの状態から
経済学的な範疇をつくるとすればどうなるか、
という問題だけではじまりそして終わるほか
ないんだということです。
そこでは、どんな〈物語〉も〈ドラマ〉も、
もうつくることができません。
そこに、現在の経済学的な考え方が
ぶつかっていると思います。

【A153】現代に生きる親鸞

【A153】現代に生きる親鸞

時間:101分
音質:5
ジャンル:宗教
講演日:1993年5月3日
主催:奈良吉野・瀧上寺
場所:奈良吉野・瀧上寺
収載書誌:東京糸井重里事務所『吉本隆明が語る親鸞』(2012年)

音源について
音源は主催者からのものでクリア。
講演終了後、質疑応答が行われるが、
ひとり目の質問に
15分以上かけて答える。

講演より
もし親鸞の浄土真宗の信仰を、
信仰じゃなくて思想なんだよといういい方をすれば、
たぶん浄土真宗は信・不信に関わらず
ぜんぶの人を覆うことができると思います。
どれが善いのかどれが悪いのか、
あるいはどれが真理で、どれが真理じゃないのか、
どれがやるべきことか、
どれがやるべきことでないのかということに、
じつに見事な解答を、
現代でも与えることができるものだと思います。

【A118】未来に生きる親鸞

【A118】未来に生きる親鸞

時間:97分
音質:3
ジャンル:宗教
講演日時:1989年6月7日
主催:東京北区青年サミット 協力:春秋社 企画:玄
場所:東京都北区・昭和町区民センター
収載書誌:東京糸井重里事務所『吉本隆明が語る親鸞』(2012年)

音源について
「機工街にて親鸞を語る」
と題された催しでの講演。
周辺のノイズや客席の話し声などが
入っているが比較的クリア。

講演より
思想というものがどう生きるかどう死ぬか。
そして、一見生きているように見えてどう死んでいるか、
一見死んでいるように見えてどう生きているか。
偉大だというけれど、どこかに滅びるものも
もちろんあるわけです。
「自ずからとなったら、光につつまれるようになって、
名号を称えたらもう
あの世に往生できる」──そういうのは
僕は信じていないんです。
そこはたぶん親鸞の思想のなかで、
時代が隔たったために滅びたところです。
しかし親鸞の思想のうち滅びてないところがあります。
それが偉大ということのしるしだと思います。
それがなければ思想というのは生きられないのです。

【A112】親鸞から見た未来

【A112】親鸞から見た未来

時間:69分
音質:3
ジャンル:宗教
講演日時:1988年10月13日
主催:大谷大学
場所:大谷大学
収載書誌:東京糸井重里事務所『吉本隆明が語る親鸞』(2012年)

音源について
客席から録音されたものだが
クリアに収録されている。

講演より
現在起こっている社会現象に特徴があるとすれば、
一見すると「緊急な事柄」のように見えるもののなかに、
本当は「永続的な問題」が混ざって、
一緒に出てきていることだと思います。
こういう考え方にたいへん示唆を与えてくれたのは、
親鸞の「再び還ってきて、自在なる慈悲を発揮すべきだ」
という考え方です。
ある社会的な事件があったら、
親鸞的ないい方をすれば──時間的にいえば
未来から──「浄土や死からの光線で
照らしだしてみなければわからない」
という永続的な課題が、
あらゆる社会現象のなかに見られるようになったことが、
とても重要なことではないかと思われるのです。de

【A078】親鸞の声について

【A078】親鸞の声について

時間:68分
音質:3
ジャンル:宗教
講演日:1984年6月17日
主催:武蔵野女子学院
場所:武蔵野女子学院・紅雲台大広間
収載書誌:春秋社『未来の親鸞』(1990年)

音源について
武蔵野女子学院の
「日曜講演会」として、
畳敷きの大広間でおこなわれた。
録音状態はあまりよくないが、
外でさえずる鳥の声も入っている。

講演より
親鸞の声はこういう声だったといって、
音声を再現しようということではないのです。
親鸞の語った言葉が、仏教で考えられている「声」として、
どんな意味を持っていたのだろうか、
できるだけお話ししてみたいのです。
東洋の思想とか宗教の最後の到達点は、どうも、
自然に対してどこまで近寄ることができるか、
あるいは心を研ぎ澄ましたとき、
「自然の声」や自然がしゃべっている言葉が
どこまで聞き取れるかが、
どこまで修行を積んだかの大きな眼目に
なっていると思われます。
これに対して、親鸞の声はどういう
「声」なんでしょうか。
根本的にいいますと、親鸞という人は、
「天地自然の声」を聞き、
そしてそのなかに心を同化させることができるようになる
ことが修行の眼目だという考え方を、
否定してしまったと思います。

【A072】親鸞の転換

【A072】親鸞の転換

時間:138分
音質:2
ジャンル:宗教
講演日時:1983年8月21日
主催:鹿児島県出水市泉城山・西照寺
場所:鹿児島県出水市泉城山・西照寺
収載書誌:春秋社『未来の親鸞』(1990年)

音源について
第一回緑陰講座
「親鸞・不知火よりのことづて」
と題して行われた講演。
音源は客席から録音されたもので
音質はあまりよくない。
冒頭部分にはテープノイズあり。

講演より
親鸞がたどった変容の過程は、中世の仏教、
あるいは現在の仏教の常識からいっても、
僧侶の概念から外れていくことでした。
修行を積むこともお経を読むこともぜんぶやめてしまい、
ただ名号を称えることだけが残ります。
「魚や肉を食っちゃいけない」とか
「女人と交わってはいけない」という戒律も
いっさいやめてしまいます。
外側から見たら堕落してだめな坊さんになったとしか
見えないはずです。
しかしいちばん大切なことは、
見かけ上の坊さんとしてだめになっていく、
そんな転換のなかに、精神の問題からも
仏教そのものの教えからも
重要な転換が含まれていたことです。
その転換は外側からは決して見えません。
本当に堕落した坊さんになってゆき、
坊さんとしての資格もないというかたちに
親鸞は自分自身を引っぱっていくわけです。

【A176】苦難を超える──『ヨブ記』をめぐって

【A176】苦難を超える──『ヨブ記』をめぐって

時間:119分
音質:5
ジャンル:宗教
講演日:1996年1月13日
主催:森集会
場所:芦屋市民センター
収載書誌:春秋社『本当の考え・うその考え』(1997年)

音源について
阪神・淡路大震災の1年後、
芦屋市民センターの
一室で行われた。
音源は主催者提供で、クリア。

講演より
旧約聖書には神話を交えた
ユダヤ民族の歴史の書である面と、
神の予言の書である面と、
個人の信仰とか体験とか苦難とかを介して、
神と対面する信仰の書という面とがあります。
『ヨブ記』はそのなかのひとつだというだけの知識から、
先入見なしに、直接読んだらどういうことを感じるか、
というところからお話ししたいと思います。

【A149】シモーヌ・ヴェイユの神

【A149】シモーヌ・ヴェイユの神

時間:194分
音質:5
ジャンル:宗教
講演日時:1993年1月23日
主催:森集会
場所:芦屋市民センター
収載書誌:春秋社『本当の考え・うその考え』(1997年)

音源について
笠原芳光氏が主宰する
森集会での講演。
音源は主催者提供。
講演より長い質疑応答も
全編収録。

講演より
「どこから見ても、そこが
普遍的真理の場所だというものを、
私たちが考えている領域のはるか向こうに
設定できるのだ」
というヴェイユの最後の到達点は、
たいへん私たちに希望を抱かせます。
そこはどこから行っても目指すことができる
領域のように思えるし、
党派、宗派独特の習慣儀礼に従わなくても、
「ただいかに真理に近づくか」
という考えだけがあればそこへ到達できる。
不可能だとしても到達可能性がいつでもある。
キリスト教的でもなければ、仏教的でもない、
あるいはどちらにも似ているといえば似ているし、
イデオロギー的であるようで
革命思想的でもあるように見える。
そういうことを介して
どこからでも行けるはずだという場所を
とにかく指差して見せてくれたことが、
ヴェイユの宗教としての
現代性のいちばん大きな場所じゃないかと考えます。

【A148】甦るヴェイユ

【A148】甦るヴェイユ

時間:136分
音質:5
ジャンル:宗教
講演日時:1992年12月19日/20日
主催:デゼスポワァル
場所:渋谷ジァンジァン
収載書誌:未発表

音源について
ヴェイユの生涯を描いた戯曲
「Simone Weil」の
来日公演に際して
2日間にわたって行なわれた講演。
音源は主催者から提供。

講演より
ヴェイユの思想のなかに未来性があるとすれば、
革命思想に関する部分と宗教思想に関する部分は、
これから非常に生々しいかたちで
生き返ってくると思います。
先進国では既成の革命概念が
無効に近づいていきつつあるわけですが、
そういうことを超えてヴェイユの考え方は、
宗教思想と革命思想の両方の点で、
近未来に光を増すときがやってくるに違いないと
僕には思えます。

この講演のテキストを読む

【A050】シモーヌ・ヴェイユの意味

【A050】シモーヌ・ヴェイユの意味

時間:137分
音質:3
ジャンル:宗教
講演日:1979年7月14日
主催:梅光女学院大学
場所:梅光女学院大学
収載書誌:春秋社『〈信〉の構造 PART2』(2004年)、中公文庫『語りの海3 新版・言葉という思想』(1995年)

音源について
山口県下関市の
梅光女学院大学で行われた講演。
録音者によるマイクノイズや
周辺ノイズが入る。
夏に行われた講演であるため
外から蝉の声が聞こえる。

講演より
シモーヌ・ヴェイユは、ヨーロッパの文化が、
世界の文化というのと同じだというほどの
勢いを持っていた時代の、
もっとも正統的な文化の、しかも、もっとも固い、
困難なところにみずからぶつかって、
粉々になって砕け散ったような思想家です。
僕たちが現在当面しているのは、
いわばカウンターカルチャーです。
ヴェイユのように正面きって
ヨーロッパが達成した根本的な問題に
ぶち当たるということは、すでに不可能であるし、
正面きった課題ではないかもしれません。
しかしこういう課題に正面からぶつかって
飛び散った文化と人間の思想の軌跡を認知することは、
決して悪いことではないと思います。
僕たちに何かをいわせて
やまないものがそこにあるからです。

【A041】喩としての聖書──マルコ伝

【A041】喩としての聖書──マルコ伝

時間:130分(うち、質疑応答29分)
音質:3
ジャンル:宗教
講演日:1977年8月31日
主催:日本YMCA同盟学生部
場所:御殿場YMCA東山荘
収載書誌:春秋社『〈信〉の構造 PART2』(2004年)、中公文庫『語りの海3 新版・言葉という思想』(1995年)

音源について
日本YMCA同盟学生部による
夏期ゼミナールとして行われた。
周辺ノイズや残響音が入っているが、
講演自体はクリアに聞くことができる。
途中、黒板を使用するため音声が遠のく。

講演より
聖書のなかの奇跡を、
まったきフィクションとして読む読み方もありうるし、
また、本当の信仰者の信心として
読む読み方もあるでしょう。
しかし、そのどちらでもない読み方もあります。
それは「言葉」に対するまったき信仰があるとすれば、
結びつかないようなふたつの対象を結びつけて、
ひとつの「暗喩(メタフアー)」とすることができる
ということです。
聖書のなかの奇跡の話は、暗喩の一種、
しかもそれはまったく結びつけることができないような
ふたつの対象を結びつけようとしている暗喩だという
読み方もあることを、申し上げたいのです。

【A020】宗教と自立

【A020】宗教と自立

時間:76分
音質:3
ジャンル:宗教
講演日:1970年7月25日
主催:止揚の会,西荻南教会
場所:新宿区信濃町・真生会館
収載書誌:春秋社『〈信〉の構造 PART2』(2004年)、弓立社『敗北の構造』(1972年)

音源について
新宿区信濃町にある
真生会館で行われた講演。
音声は客席から録音されたが、
内容は聞き取りやすい。

講演より
けっきょくどう考えたかというと、
何が価値かという場合に、
ぜんぶひっくり返せばいいじゃないかと考えたわけです。
つまり人々が偉大な思想家であるとか、
偉大な政治家であるとか、偉大な宗教者だとか
いっている奴は、いちばんだめな奴だというふうに
考えればいいということです。
人間は「いかに生くべきか」と考えた場合に、
もっとも価値ある生き方というものは、
とても架空なんですけれども、
自分の生活のところで
具体的に眼に見えるような当面している問題とか、
自分の家族とか兄弟のことならば考えたりするけど、
ベトナム戦争がどうだとか、
あんまり遠くのほうにあることは考えないという生き方が、
いちばん価値のある生き方なんじゃないかと
考えたわけなんです。

【A139】言葉以前の心について

【A139】言葉以前の心について

時間:124分
音質:3
ジャンル:思想
講演日:1992年2月8日
主催:宮崎市・一ツ瀬病院・精神医療を考える会
場所:宮崎科学技術館多目的ホール
収載書誌:弓立社『心とは何か』(2001年)

音源について
音源は主催者提供であるが、
会場の反響音のため
聞き取りづらい個所がある。
途中で声が遠のく部分もある。

講演より
人間の心の世界のもとになっているのは、
大別すればふたつあります。
ひとつは、内臓の動きが心の世界の動きを決めていく面と、
もうひとつは、動物性の神経に動かされて起こってくる
心の動きです。
人間の身体器官を起源とする考え方は、
まったく三木成夫さんの考え方によるわけですけど、
僕はこれを人間の心の動きと結びつけたのです。
これを僕の言語理論と結びつけたくて、
植物性の器官からくる心の動きは自己表出であり、
それから動物性の神経、つまり感覚からくる心の動きは
言葉になる前の言葉の指示表出である。
そのふたつがあって、それが心の動きなんだと、
結びつけてきたわけです。

【A137】現代社会と青年

【A137】現代社会と青年

時間:122分
音質:3
ジャンル:思想
講演日時:1991年11月16日
主催:千葉県立佐倉高校PTA
場所:千葉県立佐倉高校
収載書誌:佐倉高校PTA「会報」38号(1992年)

音源について
音源は主催の高校からの提供だが
途中で音声が遠くなり
ノイズが強くなる個所がある。

講演より
家庭内暴力や登校拒否、いじめというのは、
乳幼児期、もっとさかのぼりますと
胎児のときの母親との関わり方の失敗が
根本的な問題だというのが僕の考え方です。
胎児のとき、乳児のときに、
うまく子どもを扱えなかったことの代償だと
僕は思っています。
乳児、胎児に対する扱い方をそうとう失敗したというのが、
僕の理論であり考え方です。
そこへいかない限りは、家庭内暴力とか、
登校拒否という問題は、
根本的には解けないだろうなと思います。
高校生になってしまったら、本当はもう遅いんです。
人間の心の形成としていちばんたいへんだった時期は、
すでに終わっています。
だから、自分の心に問題があれば、
自分でそれを克服しようと努力をするより
しかたがありません。
人間というのは自分を超えていく存在なのです。

【A133】家族の問題とはどういうことか

【A133】家族の問題とはどういうことか

時間:157分(うち質疑応答59分)
音質:3
ジャンル:思想
講演日時:1991年2月17日
主催:東京メンタルヘルスアカデミー
場所:六本木・交通安全センター
収載書誌:弓立社『人生とは何か』(2004年)

音源について
反響音や手元のノイズがあり、
音質はあまりよくない。

講演より
人間が生きるということのなかにはいくつもの層があって、
どこに重点を置けばいいかということは
それぞれでありえます。
表面層で解決してもいいし、中間層で解決してもいいし、
もうやむをえず、これをやる以外に
方法はないのだというふうになれば、
やっぱり核の問題まで入っていって
家族内の精神障害なら精神障害の問題を解いていく
ということをやる以外にないと思います。
僕の考え方は、心の仕組みの問題でいちばん重要なのは、
胎児、乳児のところにあり、
特に母親と乳児との関係のあいだにある。
それが第1位だという考え方をとります。
そこを省みないで、非常にピンチに陥ったときの
家族の問題を解くことは
なかなかできがたいだろうと思われます。

【A124】言葉以前のこと ─ 内的コミュニケーションをめぐって

【A124】言葉以前のこと──内的コミュニケーションをめぐって

時間:71分
音質:5
ジャンル:思想
講演日時:1993年10月
主催:メタローグ社創作学校
収載書誌:メタローグ『詩人・評論家・作家のための言語論』(1999年)

音源について
安原顕氏が主宰した
メタローグ社の
創作学校で講演。
音源はたいへんクリア。

講演より
言葉以前の内的コミュニケーション──
言葉を発しないで相手にわかる、
そのわかり方の言葉っていうのは
どういうふうにしてできているのでしょうか。
誰でも、相手の表情を読んだら
何を考えているかわかるということはあるわけです。
特に恋愛状態みたいになれば、会って、動作ひとつ、
言葉ひとつで相手が何を考えているか
わかっちゃうことがありうるわけです。
そうした「内的コミュニケーション」というのは、
受胎して10ヵ月して出産されて、
1年未満の乳児までのあいだに、
その原型ができてしまうというふうに
理解すればいいと思います。
言葉なき言葉──言葉以前の言葉みたいなもので
わかってしまうという能力というのは、
そこで形成されると考えるのが
いちばんよろしいと僕は思います。

【A115】異常の分散 ─ 母の物語

【A115】異常の分散──母の物語

時間:147分(うち、質疑応答35分)
音質:3
ジャンル:思想
講演日:1988年11月12日
主催:宮崎市・一ツ瀬病院・精神医療を考える会
場所:宮崎市中央公民館
収載書誌:弓立社『心とは何か』(2001年)

音源について
音源は主催者提供。
質疑応答部分で、質問の音声が
ライン録音されていないため、
聞き取りづらいところがある。

講演より
何が重要かというと、まず母親の物語というのが重要です。
母親の物語とは何かというと、
子どもとのあいだの物語です。
それは、簡単な要素からできあがっています。
イメージを考えますと、抱く、授乳する、
オッパイをやるということ、
それからとにかく眠らせるということです。
睡眠のはっきりしたパターンを
ちゃんとつくりあげることです。
それから排泄の世話をする。後始末をするということです。
これは動物だったら、
母親はお尻をなめてやったりしますけど、同じことです。
これが母親の物語を構成する基本的な要素です。
つまり、母親と子どもの物語の構成要素というのは、
抱くとか授乳とか眠らせるとか排泄の世話をするという、
これだけの要素からできあがっています。
この要素が、どうして物語になるのでしょうか。

【A114】子どもの哲学

【A114】子どもの哲学

時間:114分
音質:3
ジャンル:思想
講演日時:1988年11月10日
主催:本郷青色申告会
場所:本郷青色申告会館
収載書誌:未発表

音源について
主催者から提供だが、
客席から録音されているため
周辺のノイズが入っている。

講演より
子どもというのは、単独ではまったく意味がなく、
定義することのできない存在です。
少なくとも母親、もっといえば父親も交えて、
「親というものと込み」でしか、
定義することができません。
だからいったん児童期、思春期になって、
おかしくなってしまったときには、半分はもう遅いんです。
はじめに決定論的なものが半分あって、
「まだ半分はさかのぼる余地もあるよ」
ということになると思います。
子どもというのは、親と2世代の込みで考えると、
いろんな問題が自ずから解けていくということが
あると思います。
僕らがこういうことをよくよくわかることができたら、
またフランクに話すことができたら、
子どもにとっても親にとっても幸いなことだと思います。